Essay 1992-2014巻頭言

2014平成26年

京都府立医科大学眼科学教室 そして明交会会員の皆さまに望むこと

 私は来年3 月末で公式には停年退職となる。1992 年( 平成4 年) 4 月1日から2015 年(平成27 年)3 月31日まで、実に23 年間という長きにわたって京都府立医科大学にお世話になり、眼科学教室の隆盛を目指してきたことになる。何とか無事に責務を果たせそうではあるが、これは何よりも明交会諸氏の大きな支えによるものであり、特に、明交会の先輩諸氏の温かさが、今の府立医大眼科を作っていると感じている。実際、平成4 年12 月19日に開催された明交会忘年会の熱気は今も多くの先生方の心の中に残っているはずである。この温かさを受け継いでいるのが府立医大眼科学教室の教室員であり、平成4 年以降に入会してきた明交会会員諸氏である。人というものは、何事についても、自分の視点で捉え、考え、判断し、相手の立場や相手の視点で物事を捉えることは得意ではない。また、感性と理性、創造と伝統、アナログとデジタル、いずれをも共存させながら物事に対処できる人はそう多くはない。しかし、府立医大眼科の人達には、それらを持ち合わせようと努力し、単一性ではなく多様性を認めようとする心の広さと温かさがある。京都という町の持つ雰囲気かもしれないし、府立医大眼科が持つ歴史と風土かもしれない。そう感じながら皆さんとともに共有してきた20 年余りの時間である。

 さて、平成4 年当時を振り返れば、私は糸井素一教授の退官のあと一年の教授不在期間を経て本学に奉職したのであり、正直なところ、教室が教室の体裁を為していないところもあり、外来患者数や手術件数もかなり少なかったと記憶している。しかし、多くの将来性のある若い力が溢れていた。眼科学教室にとって何が大切かというと、何よりも人である。意欲を持って良い眼科医、良い医学研究者になろうという人達である。実際、府立医大眼科には毎年10 名を超える意欲を持った人達が入局してきてくれた。さらに、彼らはかなりの期間、教室のために働き、早くに開業する人達は稀であった。私は、当初から、私と皆さんのお付き合いは教授と教室員、教授と明交会諸氏ではなく、一対一の人の付き合いであると思っていると話してきた。したがって、教授職を終わってからが皆さんとの本当のお付き合いであり、来年の春以降が大いに楽しみである。

 私が考えてきた教室の目標を130 周年記念誌から一部抜粋してみる。就任当初より、私が教室の目標のひとつとして掲げてきたのは国際化である。「be international」。この言葉をスローガンとして、教室員は自らの診療や研究のレベルが世界に通用するものかどうかを意識するようになった。国際学会への参加や英文論文の投稿が日常的となり、逆にこの言葉を耳にすることが少なくなった。そして、次の言葉が教室の目標としてクローズアップされるようになってきた。「臨床の府立」。言い換えれば、「患者に最善の治療を提供できるグループでありたい。」ということである。「教育」「臨床」「研究」は大学医学部が担う仕事の三本柱とされ、この三つは並列して、同じ重みをもって論じられることが多い。しかしながら、「教育」とは確立した治療あるいは臨床に必要な技術・知識、医師としての心構えを教えることであり、「研究」は治らない病気を治るようにするために行うもの、言い換えれば「未来の治療」を模索することである。「臨床」を核として「教育」と「研究」があるとするのが、私の率いる眼科学教室のスタンスであった。また、得てして、大学と関連病院を区別して考える人達がいるが、私のスタンスは全く異なる。おそらく自分自身が、住友病院や大阪労災病院に勤務していた時に感じていたことが基本になっているからである。大学に勤務する人達は、今後も関連病院で勤務する人達の視点を忘れることなく行動してもらいたい。私は大学と関連病院を一纏めにしてGreater KPUMと称しているが、京都府立医大眼科グループが強固な結束を示すことが、若手医師のリクルートにも若手育成にも診療レベルの向上にも大いに役立っていくはずである。

 京都府立医科大学の発祥を想い起こしてみると、明治五年に粟田口療病院が開設されると同時に、療病院生徒が募集されて医学教育が始められた。これは「臨床」に従事できる医療者を育て、日本における医療の向上を目指すものであったと考えられるが、ここに医学部における「教育」の原点がみられる。この史実は、「臨床」を重んじる現在の教室のスタンスに通ずる。近年の基礎医学の発展はめざましく、次々と新しい知見や研究技術が示される。そのような中で、臨床を行いつつ最先端の知識をもって医学研究を進めることは至難とも言える。しかし、臨床に立脚した研究こそ、我々臨床医が成し得るものであり、目標とするものである。繰り返しになるが、研究は現在の医療では治療に難渋するとされる患者を救済することを第一義として行うものであると考えてきた。これからも、このような考えのもとに、府立医大眼科グループから多くの優れた新規治療方法が開発されることを望む次第である。
視点を国際交流に移してみよう。何故、国際的な交流が必要なのであろうか?何故、他の施設との交流が必要なのであろうか?この答えは比較的簡単である。自分が持っている自分の常識が通用するかどうか、自分が持っている医療技術が通用するかどうか、自分の考え方が通用するかどうか、これらは基準となる何か、レファレンス、があって初めて評価できる。自分の持っている常識は、他施設では非常識ということもままあり得る。最良の医学・医療を目指すのであれば、国内外におけるアップデートな情報を的確に把握していることが大切になってくる。また、将来予測にも必要な情報であり、反面教師的な情報も必要となってくる。但し、新しい医療情報は鵜呑みにするのではなく、的確な判断力を持って処理されなければならない。世界は広く夢多いところである。府立医大眼科に所属する若者が常に外に目を向けながら大きく成長することを願う次第である。明年からは、クラブ活動でいうOB の一人として、府立医大眼科の隆盛を応援していくつもりである。

2013平成25年

研究と診療のあり方について思う

 この半年あまり、循環器領域における研究活動の不正行為疑惑の話題がさまざまなマスメディアで報じられている。これは、学術雑誌Lancet へのコメント投稿そしてブログによる不正行為疑惑の指摘に端を発したものである。具体的には、基礎研究論文における複数の図表の捏造・改ざん、さらにはバルサルタン(ディオバン)という降圧剤の臨床研究論文におけるデータの不適正な解析と利益相反に関わる事項である。後者は製薬企業も複雑に絡んだ不可解な展開を示している。今回の不正行為疑惑は眼科領域のことではないが、古くは、国内では、某大学眼科学講座から発表された論文が米国の学術雑誌論文を盗用したものであることが発覚し、当事者はもとより当該教室の教授が引責辞任したという出来事がある。米国でも、株式取得に関わる利益相反が指摘され有名大学教授が辞任したという出来事もある。さらには、他領域では、米国でも欧州でも日本でも、Nature 誌などの有名誌を舞台として、論文捏造・改ざんが行われたという事実がある。したがって、今回のような出来事は、研究活動を行う限り、他山の石であると認識しなければならない。そして、今回の出来事は、教室、明交会に所属する皆さんにも、私にも、研究とは何かということを自問自答する良い機会になると思われる。研究は基礎研究であれ、トランスレーショナル研究であれ、臨床研究であれ、その成果を単に学術論文にするものではなく、未来に繋がる智恵と技術をバイアスなく広く公正に伝え、最終的には医学・医療に貢献することを目的とするものである。したがって、自分なりに研究に関わる理念をしっかりと持っていることが重要であり、各所属グループ、例えば京都府立医科大学眼科学教室、の持つ研究の文化を育てることが大切であると私は思っている。

 さて、平成18 年8 月8日に、文部科学省科学技術・学術審議会、研究活動の不正行為に関する特別委員会から発表された、研究活動の不正行為への対応のガイドラインについて、によると、以下のように説明されている。研究活動における不正行為とは、研究者倫理に背徳し、研究活動と研究成果の発表において、その本質ないし本来の趣旨を歪め、研究者コミュニティの正常な科学的コミュニケーションを妨げる行為に他ならない。具体的には、得られたデータや結果の捏造、改ざん、及び他者の研究成果等の盗用に加え、同じ研究成果の重複発表、論文著作者が適正に公表されない不適切なオーサーシップなどが不正行為の代表例と考えることが出来る。(中略)なお、科学的に適切な方法により正当に得られた研究成果が結果的に誤りであったとしても、それは不正行為には当たらない。

 研究活動の不正行為は大きく分けて4 つある。第一は捏造である。捏造とは、存在しないデータ、研究結果などを作成することである。第二は改ざんである。改ざんとは研究資料、機器、過程を変更する操作を行い、データ、研究活動によって得られた結果などを真正でないものに加工することである。第三は盗用。盗用とは他の研究者のアイデア、分析、解析方法、データ、研究結果、論文または用語を、当該研究者の了解もしくは適切な表示なく流用することである。そして第四は研究費の不正使用である。研究費の不正使用は、実態とは異なる謝金、給与の請求、物品購入の架空請求、不当な旅費の請求、その他関係法令、規則等に違反して研究費を使用することである。これら4 つについて、不正行為疑惑が生じた場合には、研究者自身が不正の無かったことを証明しなければならない。すなわち、当然のことではあるが、研究ノートあるいはそれに類似するデータのしっかりとした管理が必要であり、研究者のみならずその所属する組織は、日頃から研究データ管理を心掛けていることが必須となる。研究活動における不正行為は、相互信頼の上に立つ研究者のあいだでは有り得ないことのようであるが、競争的研究資金の獲得などで研究者の心のなかの何かが狂い始めれば、生じる可能性はゼロではない。

 次に、臨床研究、特に厚生労働省の承認を受けた薬剤の有効性を再検証する場合にはランダム化が基本である。しかし、多くのバイアスや交絡因子が適切に処理されていない場合もあり、結果の解釈に際しては、研究者も読者も「結果に騙されないように」慎重に事実を見つめる必要がある。さらに、臨床研究では設定するエンドポイントが鍵であり、特に複合エンドポイントを用いるような場合には、データをある方向に誘導することも不可能ではないと理解しておく必要がある。さらに、企業と関係する臨床研究の場合には、利益相反を明確に示しておくことが大切である。明交会の皆さんが、研究活動における不正行為そして利益相反の意味を十分に理解して、日々の研究活動に取り組まれることを切望する次第である。
最後に、診療について少し述べてみたく思う。ベルリン大学教授Christoph Wilhelm Hufeland(1762―1836)が記載した医学必携「Enchiridion Medicum」を適塾の緒方洪庵(1810-1863)が意訳した「扶氏医戒之略(ふしいかいのりゃく)」という医者のための戒め12 条がある。これは現代の医師にも十分に通用する戒めであり、皆さんご存じのことと思われるが以下に記してみる。「人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本体とす。安逸を思わず名利を顧みず唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし。人の生命を保全し人の疾病を複冶し人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。」医師は患者のために自己犠牲と献身的な努力を身上とすることが本業であるというものである。我々は、さらに日々精進して患者サイドにたった診療を行わねばならないことを肝に銘じる必要がある。(この内容の一部は日本眼科学会メールマガジンに掲載したものである)

2012平成24年

府立医大眼科の20年を振り返る

 本誌は、「明交」第50 号という節目の時を飾ることになります。これまでの日々に感謝、明交会の諸先生方に感謝です。さて、私が1992 年(平成4 年)に府立医大に奉職してから今年で20 年の歳月を経たことになります。「光陰矢の如し」あるいは「仰ぎみればはるか、過ぎされば一瞬」という言葉のとおり、京都へ来たのがつい昨日のように感じられます。さて、当時、私は、21 年という予定在任期間を6 年毎に三つに分け、第一期(幼年期)、第二期(青年期)、第三期(壮年期)、そして総まとめの3 年というような区切りを自分のなかで設けていました。そこで、これら三つの時期を少し振り返ってみたく思います。

 第一期 (幼年期) は1992 年(平成4 年)から1997 年(平成9 年)です。第一期のはじめ、教室として何としても立ち上げたかったことは、臨床における網膜・硝子体手術の最先端技術導入と研究における基礎医学にも通用する分子細胞生物学の立ち上げでした。当時から、大学病院の眼科臨床のレベルを上げるには、一般眼科外来に加えて、優れた眼科専門外来の設置が必須であると考えていましたので、また府立医大眼科は弓削経一教授時代に日本で最も早く眼科専門外来を導入した大学病院であったこともあり、いくつかの専門外来を円滑に立ち上げることが出来ました。現在の、角膜、緑内障、網膜・硝子体、屈折・弱視斜視、そして眼形成という5 専門グループ制の黎明期であったと回顧しています。これらの中で、まず角膜外来を立ち上げました。西田幸二先生(現大阪大学教授)、横井則彦先生、外園千恵先生、そして少しあいだをおいて佐野洋一郎君、稲富勉君らが角膜外来に参入してくれました。次に網膜・硝子体外来は、赤木好男先生と前田耕志先生、そして池田恒彦先生(現大阪医大教授)を迎えて発足しました。赤木好男先生はほどなく福井医科大学に栄転され、いよいよ前田、池田コンビの網膜・硝子体手術グループの誕生となりました。ここで、大英断を迫られました。といいますのは今後の府立医大眼科を充実させるためには、網膜・硝子体手術の確固とした手術技術、手術コンセプトを次世代の人達に伝えていくことが必要であり、数人の意欲ある若人の網膜・硝子体術者グループへの参入が必須であったからです。そこで、小泉閑君、澤浩君、そして安原徹君に白羽の矢を当てました。この若人たちは期待通りに大いなる飛躍を遂げてくれ、その伝統は後輩に脈々と受け継がれるようになりました。屈折・弱視斜視については、溝部惠子先生、そして佐々本研二先生の流れをくむ稗田牧君が取り組んでくれました。

 教室員としては、1993 年(平成5 年)に川崎諭君、稗田牧君、山田潤君、服部匡志君らが入局、1994 年 (平成6年) には、小泉範子さん、鈴木智さん、中村葉さん、有田玲子さん、日昔真美さんら府立医大出身の優秀な女性5 名が入局、1995 年(平成7 年)には小森秀樹君、西浦正敏君、成瀬繁太君、八木秀和君らが入局、1996 年(平成8年)には上野盛夫君、中村隆宏君、荒木美治君らが入局し、現在の教室の中核となる人達が眼科に集まってきてくれました。スローガンにしていた「臨床の府立医大」を実現させるべく、毎週、眼科研修医らと数多くのスライドを用いて角膜スライドカンファレンスをしていたことが懐かしく想い出されます。1996 年( 平成8 年)、World Cornea CongressがOrlando で開催され、縁あってイギリス人のAndrewQuantockと面会し、これがきっかけとなって、彼が我々の教室に2 年のあいだ所属することになりました。これは、我々のもう一つのスローガン「be international」を実践するにあたって、最高の状況を作り上げることになり、これ以降、海外からの留学生が絶え間なく教室を訪れるという環境を構築することが出来るようになりました。分子生物学的な研究の立ち上げには、大阪大学細胞工学センターの松原謙一教授、大久保公策助教授に大変にお世話になりました。西田幸二先生を始め、松本章代さん、青柳和加子さん、有田玲子さん、川崎諭君らが、次々と国内留学を果たして教室の研究体制の基盤を充実させてくれたのもこの時期です。また数多くの教室員たちが海外留学に飛び立っていった時期でもありました。

 第二期(青年期)は1998 年(平成10 年)から2003 年(平成15 年)です。1999 年のバプテスト眼科クリニックの開設、2001 年の日本臨床眼科学会の開催、2003 年の日本眼科手術学会総会の開催などと相まって、教室が大いなる飛躍を遂げた期間でもありました。特に、森和彦先生が確固たる緑内障外来、特に緑内障データベースを構築し始めたのもこの時期です。また、我々がエキシマレーザ屈折矯正手術を始めたのも2000 年からであり、稗田牧君を中心とした屈折矯正手術外来が大学に発足しました。現在の教室を支えてくれている上田真由美さん、池田陽子さん、渡辺彰英君、米田一仁君、小嶋健太郎君、関山英一君、奥村直毅君らが教室に入局してくれたのもこの時期です。瓶井資弘先生(現大阪大学准教授)が指導してくれたのもこの時期となります。

 第三期は、2004 年(平成16 年)から2009 年(平成21 年)です。臨床でいうと、新医師臨床研修制度が発足し、眼科希望の若手医師の数が減り始め、また海外留学をあまり好まなくなってきた時期でもあります。このようなやや後ろ向きな時代背景の中で、荒木美治君、渡辺彰英君が眼形成外来を立ち上げてくれ、往年の府立医大眼科の名声の復興を果たすことが出来るようになりました。彼らは聖隷浜松病院の中村泰久先生そして嘉鳥信忠先生の流れを汲む当代一流の眼形成外科医となってくれたことは、大変に嬉しく思っています。研究はというと、この頃から羽室淳爾先生のご指導を得ることが多くなり、我々の教室の研究レベルも飛躍的に向上するようになりました。英国、米国、スイス、シンガポール、韓国などからの数多くの留学生を迎えるようになったのもこの頃からです。また、John Bush 氏がSenior Administratorとして眼科教室に来ていただけたことも大きな飛躍に繋がりました。

 纏めの3 年は、2010 年( 平成22 年)から2012 年( 平成24 年)です。現在の府立医大眼科は、国内の医科大学のなかでも、非常に充実した臨床の体制をとれていると思われます。また、5 つの専門グループは、高い臨床レベルを保つのみならず、研究開発においても活発に行っています。角膜グループは、国家機関プロジェクトである再生医療の実現化ハイウエイに選ばれて、従来から行ってきた眼粘膜上皮移植とともに培養角膜内皮移植の開発を行っています。さらに、ドライアイは涙液油層の研究、緑内障は疾患関連遺伝子多型の探索、網膜・硝子体は加齢黄斑変性の病態解明、屈折矯正は新規屈折矯正技術の開発と学童近視の大規模疫学研究、そして眼形成は高速瞬目解析装置による眼瞼疾患のスクリーニング法の開発など、実用化に向けた本格的なトランスレーショナル研究を精力的に行っています。さらに、角膜上皮細胞の分化誘導に関わる根源に迫る研究、ヒトiPS 細胞、ES 細胞の研究、そして眼表面の自然免疫系の研究なども積極的に行っており、基礎医学教室を思わせるかのような香りの漂っているところもあります。Greater KPUMという観点に立てば、伴由利子先生、小泉閑先生、溝部惠子先生、池部均先生らが臨床教授として、山崎俊秀先生、小室青先生、鈴木智先生、池田陽子先生、中村葉先生らが客員講師として活躍してくれています。さらに小泉範子先生が同志社大学医工学部教授、山田潤先生が明治国際医療大学教授として頑張っています。今年度には、古泉英貴君が東京女子医大に、丸山和一君が東北大学にそれぞれ奉職し、共同研究を立ち上げながら連携の輪を広げてくれています。眼科学教室の数多くの方々が関係病院を含む各方面で活躍する姿を見るにつけ嬉しい気持で一杯になります。国際的な活動としては、カーディフ大学、エアランゲン大学、ハーバード大学、スイス連邦工科大学ローザンヌ校、シンガポール国立眼センター等との交流をさらに深めています。
さて、私は2012 年3 月末日を以て停年退職するはずでしたが、大学の規定変更により、実際の停年は2014 年3 月末日に変更になりました。あと2 年余り、府立医大眼科が世界のトップ10 に並び称せられるように、引き続き自身の全精力を費やしていく所存です。明交会の諸先生方、関係病院の諸先生方、そして大学教室を温かいサポートで支えていただいている秘書や研究員の方々に改めて感謝申し上げて、20 年の括りにさせていただきたく思います。今回の文中に氏名が掲載されていない方々につきましては、次号の明交で詳細に記載させていただく予定です。(明交第50 号より)

2011平成23年

Be Internationalな視点で考えよう

 ここ数年、海外出張をする機会が極端に増えてきました。それにともなって、日本と米国の違い、日本と欧州の違い、さらにはアジアにおける日本の立ち位置、などに関心を持つようになってきました。といいますのも、1979 年に初めて米国留学をしたときから約30 年、実に多くの海外の国々を訪れ、そして多くの人達と話をし、多くの友達が出来ました。そのなかでも、特に印象に残っているのは、眼科医療における、1980 年代までの米国と現在の米国との違い、1990 年始めと現在のシンガポールの違い、20 世紀末と現在の中国の違い、さらには21 世紀に入ってからの南米や東欧における大きな変化です。眼科診療は、1980 年代始めまでは、明らかに米国主導型の発展を遂げていました。1980 年代後半から1990 年代始めにかけて日本が世界の眼科に追い付き追い越せと積極的な行動をとるようになり、米国と肩を並べそうになりました。しかし、そこから約20 年、バブル崩壊と厳しい制度規制のなかで足踏みする日本の眼科を尻目にして、21 世紀に入るとシンガポールや香港が、そして中国が大きな力を持つようになってきました。さらにはインドの大きな発展もあげられます。すなわちBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の経済発展がその国々の眼科領域の発展にも大きく連動しはじめたとも言えるでしょう。また、米国や欧州を中心とした眼科系製薬会社や医療機器メーカーが早い段階での臨床試験を発展途上国で行う傾向にあることも南米や東欧の眼科医療の底上げに大きく貢献しているように感じています。さらには、エキシマレーザーやフェムトセカンドレーザー、クロスリンキングなどを用いた屈折矯正手術への取り組みから、欧州発信の優れた眼科診療機器や治療技術が生まれていることも特筆すべき事柄です。e-メールの日常化とともに、英語圏あるいは英語を重視した医療環境の充実を進めてきた国々がより発展してきたようにも感じています。医学研究の独自性という意味では語学はむしろ邪魔をする可能性がありますが、国際的な経済活動や医療を含めた社会活動には英語は今や必須のツールとなっています。結果として、日本の現状は、ある意味で、国際的には企業主導の研究開発から取り残され、心理的な鎖国状態に陥っていると言っても過言ではないようですし、このことは眼科に限らず、すべての意味で、日本国内で生じている混乱の一因のようにも思えます。このように、ここ10 年程の社会変化は驚くべきものですが、これを予言したような本が2001 年に出版されていたのを皆様はご存知でしょうか? 著者サミュエル・ライダーによる「ライオンは眠れない」(実業之日本社)という本です。私は10 年前にたまたまこの本に出会い、最近になって読み直しました(注: 平成20 年にも紹介しています)。当時は、日本が中国よりははるかに優位に立っていましたので、この本の内容はあり得ないと思っていました。しかし、10年たった今、この本の内容はほとんどが本当であろうと思っています。一説には、著者は、日本の官僚ではないかとの憶測もなされているぐらいです。少し、文章を引用して以下にご紹介させていただきます。

 これは本当のお話。ある時代、この世界に3 つの国がありました。1 つは、「龍」の国。そこから海を渡ったところに「鼠」の国。そして、さらに遠く海をへだてて「鷲」の国。これらの国は過去に戦争をし合ったこともありましたが、ここしばらく平和が続き、それぞれめざましい発展をとげました。ところが、あるとき、繁栄に翳りが見え始めたのです。3 つの国はそれぞれ必死に対策を練りましたが、うまくいきませんでした。なぜなら、誰もが贅沢に慣れてしまって、もう昔のように質素な生活には戻れなかったからです。なかでも「鼠」の国の場合が一番深刻でした。他の国以上の繁栄を味わった後、急に景気が悪くなったのです。街には失業者があふれ、犯罪や自殺が増え、心の荒廃も目を覆うばかりとなりました。その間、何とか国を立ち直らせようと、何人もの王様が出て政治を行いましたが、かえって悪くなる一方でした。ところが、あるとき、ライオンの王様が出ると、様子が一変しました。(中略)

 改革がスタートしてからしばらくして、大変なことが起こりました。改革に急ブレーキがかかりはじめたのです。原因は、百年に一度あるかないかの不景気でした。「龍」の国の進出による経済圧迫と、「鷲」の国で勃発した経済失速が引き金となって、この国にも大不景気が訪れたのです。失業者が街にあふれはじめました。政府は慌てて対策を講じたものの、後手後手に廻りました。それほど失業者の急増は短期間のうちに起こったのです。社会不安から、企業の経営はさらに悪化しました。連鎖倒産が起こり、たくさんの会社や銀行が悲鳴をあげるようにして潰れはじめました。強盗や殺傷事件が一挙に増え、自殺者も増えました。ところが、これほどの社会不安にもかかわらず、驚いたことに、ライオン政権の支持率が落ちることはありませんでした。口調を改めて、ライオン王が言いました。「私はこの先「龍」の国や「鷲」の国が、わが国に対し、無理な要求や何らかの干渉をしてくると踏んでるんです」。タカ長官が厳しい顔で言いました。「そうです。「龍」、「鷲」、「鼠」の三国のバランスが狂ってきている。これが大きな原因です。つまり、「鷲」の国に翳りが見え、「龍」の国の力が逆に拡大化している中で、わが国の脆弱さが目立ち始めてきた。わが国は弱すぎるんですよ。政治、文化、軍事、外交、そして今は経済まですべてが弱い。もっと強い国にならないと、このままでは危ない」。ご想像のように、「龍」は中国、「鷲」は米国、そして「鼠」が日本であり、ライオン王が小泉純一郎ということになります。

 話は脈絡なく交錯しますが、このような状況のなかで、府立医大眼科を主宰する私としましては、3 つのことが遂行できるように心がけています。第一は、教室そのものが国際的な感覚を維持することです。Be Internationalをモットーに掲げてきた教室ではありますが、短期留学を含めた海外医療機関との積極的な交流をさらに推し進めています。また、JohnBush 氏のような外人が教室に常にいてくれる環境づくりを心掛けています。第二は、電子媒体の積極的な活用です。今年中には、関西眼疾患研究会の会員には、府立医大眼科の教室セミナーの講演などを含めて、すべてiPhone やiPadなどで見られるようにする予定です。また、救急患者対応などにも使用できる患者情報転送システムを整えました。第三は、府立医大眼科グループの強い絆の構築です。今一度、初心に戻って、このことに精進するつもりです。以上、述べてきましたように、医療を取り巻く環境が、国内的にも国際的にも大きく変化しつつあることは事実ですので、各論的な医学的知識を増やすだけではなく、医療と一般社会との関係、医療を通じた国際的な関係などのありかたも考えて行く必要がありそうです。(明交第49 号より)

2010平成22年

Unmet Medical Needsという考え方

 Unmet (medical) needs(アンメット・メディカル・ニーズ)という言葉をよく耳にするようになりました。「未だ有効な治療方法がない医療ニーズ」といったような意味であり、欧米の会社が医薬品開発の基本としているコンセプトになると思います。医療におけるunmet needs は? 眼科におけるunmet needs は? そして自分が専門とする眼科領域におけるunmet needs は?と考えていくと、疾患とその治療について、今までと少し違う視点から物が見えてくるように思います。この巻頭言では、私が思うunmet needs について少し述べてみたく思います。眼科全体で考えるならば、unmet needsの第一番は近視の治療ということになるでしょう。文部科学省統計によると、子供の屈折異常は戦後継続的に右肩上がりの数字を示し、その多くは近視であるとされています。この近視の原因は、第一に近業作業が多くなった環境要因であるとされています。遠見におけるボケ像が近視化に関係することはある程度証明されており、特にlate-onset myopia やadult-onset myopia(成人近視)との関係が問題となっています。この近視抑制には、オルソケラトロジーが有効であるという報告が海外から出始めており、また、調節ラグを考慮した低矯正の眼鏡処方やコンタクトレンズ処方が有効とされています。さらに、近視進行阻止の薬物があれば理想的ということになり、かつてはドーパミン受容体作動薬が注目された時期もありましたが、現在では、その話は立ち消えとなっています。また、early-onset myopia の主流を占める強度近視には遺伝要因の関与が重要視されていますが、眼軸長延長の病態はいまだ謎のままとなっています。最近では、円錐角膜へのクロスリンキング治療から派生して、強膜へのクロスリンキングを眼軸長延長抑制、すなわち近視治療法として検討しているグループもあります。強度近視は単純に屈折異常の問題をとおり超え、近視性黄斑変性症を生じる可能性があります。phakic IOL やエキシマレーザー屈折矯正手術により正視化した場合に、そのリスクが下がるのであれば、これは単なる屈折矯正治療法であるのみならず、素晴らしい治療法ということになりえます。このような屈折・調節領域における根本的な疑問とその解決方法の模索の多くは、屈折矯正手術の開発から派生しているように思われます。しかし、成人における近視への手術療法であるエキシマレーザー屈折手術の効果が永久的なのかどうかなど、素朴でかつ重要な答えは未だに得られていません。私は、近視と眼精疲労は形の異なる環境順応であろうと思っています。小児期から成人までであれば近業作業に応じて近視化し、多くの場合には眼精疲労を感じることなく環境に最適な -3ジオプトリー程度の近視に落ち着きます。しかし、成人では近業作業に対して近視化という生理的対応が徐々に困難になり、わずかな成人近視を生じるか、あるいは眼精疲労を生じるというものです。したがって、眼精疲労には低濃度の副交感神経遮断剤が有効なはずであり、実際、我々は20-40 倍希釈のシクロペントレートを点眼として使用することがありますし、欧米ではムスカリン阻害剤であるピレンゼピンが注目されていた時期もありました。老視についての対処法や治療方法も、unmet needsという考え方の延長線上にあると言えます。不完全ながらの多焦点眼内レンズ、老視用コンタクトレンズ、モノビジョン、このような手段への患者サイドからのニーズはますます高まるものと感じています。

 さて、個別領域についてのunmet needsを考えてみましょう。まず角膜です。角膜ではドライアイのみならずマイボーム腺機能不全(MGD)や眼瞼炎が大きな治療開発分野となっていくと考えられます。MGD はその病態を含めて詳細が分かっておらず、また常在細菌との関わりも十分には解明されていません。しかし、世界的に見てその頻度に地域差があり、特にアジア諸国に多く見られるとされています。おそらく常在細菌叢との関連やその地域の公衆衛生学的な状態とも関連し、前部および後部眼瞼炎(マイボーム腺炎)の頻度がある程度変化するのであろうと想像しています。感染症としては流行性角結膜炎があげられます。これは熱帯や亜熱帯地域に多く発生しますが、高緯度の地域ではその発生頻度は低いようです。このため、流行性角結膜炎は欧州や米国ではあまり大きな問題とはならず、むしろアジア諸国の問題であるとされています。一方、円錐角膜は世界的な問題です。これには角膜クロスリンキング、角膜リング挿入などの治療法が注目されていますが、この疾患へのunmet needsとしては十分には応えられておらず、角膜移植法やコンタクトレンズフィッティングを含めて今後も大切な問題として捉えられていくでしょう。 日本における中途失明でもっとも重要視されている正常眼圧緑内障、加齢黄斑変性そして加齢性眼瞼下垂についてもunmet needsを満たす治療法の開発が望まれています。数多くの抗緑内障点眼薬が開発され市場に出回り始めたこと、数多くの加齢黄斑変性患者に抗VEGF 抗体薬が使用され始めたこと、これらを勘案してみますと、我々の想像以上に、多くのところにunmet needs があり、叡智を集約して研究開発していく余地があることがわかります。今治らない病気の治療法を開発する、あたらしい分野を開拓し、そして治療法を開発する、これは極めて重要なことなのです。最後に一言、医食同源という言葉があるように、眼についても良い食べ物という概念が出来つつあります。ルテインやアスタキサンチンを豊富に含んだほうれん草や紫サツマイモのみならず、食べ物の生活指導がunmet needsとして重要になってくるかもしれません。

 最近、我々はともすれば受動的になり、企業の導入する医薬品や医療機器を追従する傾向が増していますので、今一度、自分なりに、将来どのような治療法が必要とされるであろうかを考えてみる必要がありそうです。(明交第48 号より)

2009平成21年

医療を取り巻く環境は変化する

 我々が気付いているかいないかは別として、医療を取り巻く環境の底辺において地殻変動のような大きな変化が起こりつつあると私は感じています。その思いが、自分のなかで非常に明確になってきましたので、自分なりの思いを率直に書いてみたく思います。

 私が眼科研修を始めたのは昭和49 年(1974 年)、府立医大眼科にお世話になったのは平成4 年(1992 年)、そして今年は平成21 年(2009 年)。府立医大で眼科医としての半分の時を過ごしたことになります。この時の流れのなかで、日本の眼科医療にインパクトがあったと自分なりに感じていることがいくつかあります。研修医のころ(1970 年代〉のコンタクトレンズと眼科用アルゴンレーザーの導入、昭和60 年(1985 年)の厚生省(当時)による眼内レンズの承認、1980 年代、1990 年代の網膜・硝子体手術技術の進歩、2000 年の眼科用エキシマレーザ機器の厚生労働省による承認、近年の25 ゲージカッターによる黄斑手術、高性能な多焦点眼内レンズ(premierI0L)の登場などです。そして昨年からの加齢黄斑変性に対する抗VEGF 抗体の硝子体注射の導入です。これらの医療技術が如何に多くの患者さんに福音を与えてきたかは皆さんが知るとおりですが、今日の本題はそれではありません。これらの技術導入が眼科医療にどのようなインパク卜を与えてきたか、そしてその延長線上で、我々はどのような医療の将来を考えていく必要性があるかということを自分の印象を含めて述べてみたく思います。酸素を透過しない、しかし眼鏡が必要ないというハードコンタクトレンズが導入されたころ、当時の眼科医の多くは、この技術を積極的に導入しようとはしませんでした。しかし、コンタクトレンズには一般大衆の大きな希望と期待が集まり、眼科医による大規模なコンタクトレンズクリニックがいくつか開業され、またそのニーズとともに大企業が誕生していきました。今では当たり前となっている一般眼科医院によるコンタクトレンズ処方は、実は当時はそれほど頻繁に行われていたことでは無かったわけです。次に眼内レンズです。厚生省による眼内レンズの承認は昭和60 年でしたが、眼内レンズ手術は、実は、これ以前から眼内レンズの個人輸入という形で白内障ボリュームサージャンらによって行われてきました。ただ、その当時は、ヒアルロン酸が無く空気下での挿入であること、医療制度におけるギリギリの解釈が必要であったこと、などから積極派と慎重派に分かれました。この昭和60 年の眼内レンズ承認は眼科全体に大きなインパクトを与え、眼科研修希望者の著しい増加、白内障手術希望患者の著しい増加、そして第一世代の白内障手術専門病院の黄金時代到来となったことは事実です。同様のことが眼科用エキシマレーザーの承認でも起こりそうになりましたが、実際には、眼科医療機関ではなく巨大な美容形成外科グループに屈折矯正手術希望者が集中し、眼科医グループでは、むしろ醒めたような感じさえも漂って現在に至っています。しかし、一般大衆の近視矯正手術にかける期待は大きく、現在では年間に30 万人とも40 万人とも言われる人達がこの手術を受け、その結果を享受しています。このコンタクトレンズ、眼内レンズ、そして屈折矯正手術を取り巻いてきた歴史を総括してみますと、新しい治療法の持つリスクとベネフィットのバランスで、医師よりも一般の人のほうがよりリスクをとる傾向にあるということ、そして一般の人達のなかに大きな期待とニーズが形成されると、その分野の医療は必ず大きな発展を遂げること、が明瞭になってきます。そこには一般社会と同様な経済原理が働いていることが分かります。それでは、硝子体手術はどうでしょう。十数年前に黄斑円孔が硝子体手術で治るということが話題になりました。当時の試算では、黄斑円孔のほうが網膜剥離の患者数より多いとされており、手術を受けるであろうポテンシャルのある網膜硝子体手術の患者数は一気に倍増したことになります。同様の動きは黄斑上膜に対する手術的アプローチで加速し、現在のように多数の硝子体手術が行われるようになってきました。こちらは、手術技術と手術方法の進歩が、新たな需要を開拓した典型的な一例と言えます。手術を掌る眼科医にとっては、個々の患者さんのことを考えているために、このような大きな流れを適切に理解し把握している人は少ないように思われますが、費用の観点からすると、手術とともに点眼薬、眼内レンズ、ディスポーザプル製品が大量に消費され、これが企業の大きな利益に反映していることになるわけです。この最も端的な例が加齢黄斑変性に対する抗VEGF 抗体の硝子体注射による治療です。これは素晴らしい治療法であり、この点では全く非の打ちどころがないものですが、眼科医の医療スタイルを変えつつある恐ろしい治療法でもあると感じている人は果たして何人おられるでしょう。医療経済の立場からだけ言えば、この治療法で患者さんが支払うほとんどの費用は製薬会社の収益に繋がるのであって、いわゆる医療機関に残る医療収入は微々たるものとなっています。眼科領域における過去の事例を振り返ってみても、このような薬価・医療費バランスの悪い例は、初めてであるといっても過言ではないでしょう。このため、米国の基幹病院では、高価な抗VEGF 抗体を使用する病院が約50% で、安価な抗VEGF 抗体(avastin) を使用するところが約50% であると聞いています。当然、医療訴訟のことを気にするかと思いきや、州法が医師を守ってくれるので、avastin で問題なし、と公言はばからない医師が大勢います。

 さて、米国では、Comparative Effectiveness Studyという概念が登場しつつあります。これは、従来であれば、薬剤Aと薬剤B のどちらが有効かというような臨床比較試験がなされてきましたが、そうではなくて、例えば、糖尿病黄斑浮腫の治療としてレーザーによるグリッド照射とステロイド硝子体注射のいずれが有効かといったような異なる手段の治療法を比較するというものです。長期的にみて、本当に有効な方法は何なのかということを大規模に疫学的に見ようというものです。もう一つは、透明性(Transparency)を保ちながら、正しい情報をStakeholdersと一緒に共有し、将来に向けて何が正しい医療の方向かを検討していこうという流れです。医療に関わるStakeholdersと言えば、医師、看護師、他の医療従事者、医療に関わる会社関係者、そして何より患者ということになります。よくよく考えれば、我々が今まで行ってきた医療は、医師から患者へという「上から目線」の行為がほとんどでした。しかし、医療に関わる広告も許されている米国では、一般消費者マーケットと類似した感覚で医療を捉えようとしていることがわかります。さらには、医療にかかわる保険会社が大規模データを持っているために、様々な解析により、医療における無駄をコンピュータ上で解析し、そのデータから医療費の無駄を省こうとしています。極端な例を一つあげましょう。心臓移植における一年生存率さらには一例当たりの医療費は、医師の今までに行ってきた心臓移植手術症例数と相関することが分かっています。手術数の多い医師のほうが、合併症が少なく一年生存率が高く、合併症が少ないために医療費が安価で済むというものです。当然、医療保険会社はそのような医師に患者を紹介していくような誘導を行います。日本の現状では考えにくいことですが、海を越えれば、このようなことが現実となっているわけです。さらには、計量心理学などを駆使したUtilityMeasureを見ていくということもされています。日常活動がどれほど問題なく出来るようになったかではSF-36、視機能に関してはVFQ-25 が有名であり、さらにはEuroQol、EQ-5D、Health Utilities Index 3 (HUI3)などがあり、このような考えの延長線上でQALYs が算出され、社会全体の医療経済における費用効果分析が可能になっていくわけです。もちろん、個々の医療技術や薬剤における長期的な安全性が担保されていることは必須の条項であり、Stakeholders 全体で透明性を持って治療法の安全性を検証していくことは、今までにもまして行わねばならないプロセスです。以上、述べてきたような考え方は、我々医師にとって決して気持ち良く受け入れられるものばかりではありませんが、各論的な医学的知識を増やすとともに、総論的な医療が果たす社会へのインパクト、一般社会と医療の関係を念頭に置いていく必要性があるように思います。少なくとも自分の行っている医療を患者目線でも評価することは、今後必須となっていく事項であると想像します。(明交第47 号より)

2008平成20年

歴史的そして国際的感覚で捉える

 過去16 回、いままでの巻頭言では眼科にかかわる内容を述べてきました。しかし、今回は、私が非常に関心を持っている歴史的および国際的感覚に基づいたグローバルな政治・経済の見方と考え方、日本が直面するであろう問題、そしてこれに伴う大学の変化について少し触れてみたく思います。私は政治や経済の専門家ではありませんので、今回の内容の多くは、私が共感したサミュエル・ライダーとハーブ・マイヤーからの受け売りになることを、まずご了解いただきたく思います。また、内容の真実性については皆さんの判断にお任せするとして、私が好きなタイプの話であるとして気楽に読んでいただければありがたいです。

 平成13 年(2001 年)の晩秋、一冊の本に出会いました。京都で我々が主催した日本臨床眼科学会を終えた2カ月後です。その本の名前は「ライオンは眠れない」、サミュエル・ライダーというイギリス生まれの風来坊(某日本官僚という説もある)が、日本に百年に一度の大変動が起こることを予測して書いた軽い読み物です。この本の内容は、デノミの実施と財産税を作ることで日本政府が何百兆円もの借金を帳消しにするかもしれないというものであり、当時、随分と興味を持たれたものでした。ただ、この本の内容で私が驚いたのは、「鷲」の国として紹介されたアメリカ、「鼠」の国として紹介された日本、そして「龍」の国として紹介された中国のことでした。「龍」の国の進出による経済圧迫と「鷲」の国で勃発する経済失速を予測し、「龍」が世界の超大国となり、「鼠」は大変なことになるというところでした。7 年も前のことですから、経済における中国の国際的な影響力はまだまだ僅かな時でしたので、俄かには信じがたいという思いでした。さて、7 年の時を経て、歴史的考察のしっかりとした納得のできる記事に出会いました。ハーブ・マイヤー(Herb Meyer, 米国)が、今年の世界経済フォーラム(ダボス)で報告したFour MajorTransformationsというものです。このフォーラムは、世界の主要な企業の最高経営者が集まるものであり、マイヤーはレーガン政権の特別補佐で、ソビエト連邦の崩壊を予測した米国政府関係者の数少ない一人でした。それでは彼の記事の4 つの内容を要約してみましょう。

1. イラク戦争の意味するもの

 世界にはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教という三つの主要な一神教がありますが、キリスト教とユダヤ教は、16 世紀を迎え、法律の遵守、自由経済の保障、個人の権利保護などを認める近代的な社会に順応するべく宗教改革を進めました。これが西洋近代文明の出発点となっています。一方、7世紀に生まれたイスラム教は数多くの穏健派と一部の急進派で形成され、急進派は幾度となく西洋文明を攻撃してきました。その最たるものが、1683 年の第二次ウィーン包囲というオスマン帝国による西洋文明への攻撃でした。結果は、西洋側が勝利を治め、以後、イスラムは近代社会に融和をすることなく21 世紀を迎えるに至っています。この戦いが1683 年9 月11日に始まったことは、米国の9.11 テロ事件との関係でも興味深いと言われています。現在、米国はテロリストを探し出すこと、そしてアフガニスタンとイラクで戦いをしていますが、そのゴールはイスラムを近代化しようというものであり、イスラムにおける女性の社会進出、近代法の整備などは良い証となります。今後の動向として本当に怖いのはイランであり、その指導者が穏健になるかどうかということです。

2.中国の台頭

 中国では、過去20 年で2 億5 千万人が農村部から都市部に移動し、今後20 年でさらに3 億人が都市部に移動しようとしています。必然的に、都市部で数多くの仕事が生じ、特に製造業が大きな発展を遂げつつあります。この中国と低価格で高品質な商品を求める米国ビジネスは、奇妙な持たれあい関係になっており、ある意味で両国の経済成長をサポー卜する結果となっています。当然のことながら、原油を含むエネルギー資源の獲得合戦となり、将来にはペルシャ湾に米国の空母のみならず中国の空母も見られることになるはずです。中国について問題が生じるとすれば、台湾併合への軍事行使でしょうし、これは米国との戦争ということになる極めて危険な事柄です。

3.国際社会における人口統計の変化

 現状の人口は出生率(合計特殊出生率)が約2.1 で維持されるといわれていますが、西欧社会では平均1.5となっています。このことは欧州に20 年後に労働人口の30% ほどの減少を、30 年後に7,000 万人程度の人口減少をもたらすと予測されており、大きな経済的ダメージを与えます。そこで、西欧諸国はイスラムから数多くの移民を受け入れています。このような背景もあり、ドイツ、フランスはイラク戦争に対して米国を支援しなかったとも考えられます。現代の西欧社会がポストモダニズムで非宗教的であることが、今の人口減少という危機をもたらしており、出生率をあげるためには、宗教を支える保守的な社会の形成が必須と考えられています。日本はというと出生率が1.3 であり、2020 年には5 人に1 人が70 歳以上となり、今後30 年間で6 千万人もの人口が減じることになると予測されています。このような状況にある日本は、外国からの季節労働者や移民も受け入れないため、長期的には国の閉鎖に近いことが生じる可能性があります。米国の出生率は2.0とまだましですが、白人は1.6、ヒスパニックが2.7となっており、欧州諸国と同様なトレンドを示しています。健全な国を育てるためには多くの子供が必要であるというのは単純な法則であり、その理由は、子供は大量消費者であり、そして成長すると税金の支払者になるからです。米国は、第二次世界大戦後に子供一人当たりに600ドル(今に換算すると12,000ドル)を支援し、ベビーブーム政策を取りましたが、この政策は大きな経済的成功をもたらしました。しがって、同様の政策を行うことが経済的に可能であれば必要な時代となっています。中国とインドでは人口減少の問題は生じていませんが、男子と女子の生みわけにより男子が増加し、結婚できない男子が7千万人生じるとされています。ロシアの出生率は極めて低く、2050 年にはイエメンの人口より少なくなるとされています。このような各国の人口推移は国の発展を考える場合に極めて重要であり、このトレンドを変えるためには、国が大量の資金投下をするか社会構造を変化させる必要があります。

4.米国的ビジネスの再構築

 米国では、昨今のビジネスにおいて大きな構造変化が生じています。それは最高の品質のものを最少のコストで提供するというビジネスの原則を徹底追及する故に起こっていることです。結果として、多くの仕事がアウトソーシングとなり、企業における被雇用者数は減少し、独立した契約社員数が増加します。このため、究極的には、企業は効率的で高い収益性を持つことになるはずです。

 これらの内容、私には、西欧社会から見た現代のマクロ的解釈として納得できるところが多いように思いますが、皆さんには如何でしょう。日本の政治における国内・国外政策の混乱、そして空前ともいえる国の負債などへの対策は、これからもおそらく受動的でしかありえず、その影響が「知」を担う大学や「健康」を担う病院の未来の方向性にまで歪みを生んでしまうことが何となく感じられると思いませんか?日本が、ふたたび、社会保障制度の改革に真剣に取り組む前に、大津波が押し寄せてしまうかもしれません。眼科医療においてもしかりです。このような時に我々はどのようにすべきなのでしょう。それには、おそらくグローバルな視野に立って日本の構造変革を予測し、西欧で成功しているシステムを探し出し、独自にアレンジして採用し、現状を大きなチャンスと考えて前向きに捉えることが良いと思っています。雑文をお読みいただきありがとうございました。 (明交第46 号より)

2007平成19年

今、感じ、そして思うこと

 平成4 年4 月1日に京都府立医科大学に奉職してから15年余の歳月が過ぎました。仰ぎ見れば遥か、過ぎ去れば一瞬、という言葉のとおりであると実感しています。明交会の先輩諸氏、同輩、後輩の方々も同様に思われていることと想像します。この間、l 年ではさほどの変化を感じないことであっても、15 年間では実にさまざまな事柄が生じていますので、最近のいくつかの事柄について私の考えを述べさせていただきたく思います。

 まず、平成16 年4 月から厚生労働省により導入された新医師臨床研修制度です。この制度は、医師国家試験合格後に、2 年間の定められた初期研修を、マッチングされた研修指定病院で行うというものです。医師研修の理想像を夢見て作られた制度は、現実には予想外の事柄ももたらしました。例えば、この制度により平成16 年度以降、大学付属病院からは、今までの意味の研修医が消えてしまいました。逆に、数多くの研修医が集まる病院も出来てきました。人手に関して裕福なところと貧乏なところが、自ずと出来てしまったわけです。大学付属病院などで生じたこのひずみが、人手の足らない病院群を生み出し、その病院群の中堅医師に大きな負担がかかり、ついには大量の退職者が出るという流れが生じました。現在もこの負の連鎖は続いており、いくつかの大病院でも医師不足が生じ始めています。私の目には、過去10 年以上にわたる公的病院等の拡充などと相まって、制度変革に誘導された医療バブルの崩壊の始まりのようにも移ります。ここに至って、過疎地における医師不足に対して、医学部定員を増やすことが決定されたようですが、これが将来の医療費増加へ影響することは必須であり、場当たり的な対応といわざるを得ない状況です。それはともかく、おそらく数年を経て、最終的なそれなりの均衡状態に至るものと感じています。あたかも30 数年前の学園紛争時の混乱とその後を見ているような気がします。

 この間、眼科学教室としては、数多くの学生そして研修医に眼科医療の素晴らしさをしっかりと理解してもらうべく真摯に努力をしてきました。実際、眼科は、2 年目のスーパーローテイト眼科選択研修医、3 年目の前期専攻医の教育について、しっかりとした教育システムを作り上げ、そして充実した内容の研修を用意しています。また、関係病院でのストレート研修医には、各関係病院眼科の先生が積極的な眼科教育を行っており、このサポート体制には本当に感謝しています。おかげをもちまして、多くの若人が府立医大眼科に興味を持ってくれており、人的な面で不安の少ない状況を維持しており嬉しい限りです。

 さて、次に大学の立場の変化です。京都府立医科大学はこの11 月1日で創立135 周年を迎えます。明治5 年9 月に京都療病院として木屋町二条下ルに、そして11 月に栗田口の青蓮院に仮療病院が設立されました。それから数えて135 年を経たことになります。そして、平成20 年4 月には一法人二大学の公立大学法人として新たに発足します。京都府直属の公立医科大学から、独立行政法人の運営する医科大学へ移行することになります。簡単に言えば、京都府の直接統治から間接統治に変わるということになります。国立大学法人ほどではないにせよ、大学の掲げる理念と運営方針が、大学の将来に今までより以上に大きく影響してくる可能性があります。また、京都府民の税金を投入している大学であることを、より意識せよということにもなってきます。実際、京都北部地域への医療サポートは府立医大が背負う必須事項ということになってきています。この方針は極めて大切ではありますが、府立医大が京都府への医療サポートという狭量な視野だけで動くことなく、国際的視野にたち、今後も大きく発展していくにはどのようであらねばならないかを検討していく時期にもあります。期せずして、この4 月から京都府立医大付属病院長を仰せつかることになりました。病院長は専任ではなく、兼任であり、眼科学教室の主宰者であり、かつ病院長を兼務するということで日々仕事をこなしています。府立医大付属病院は年聞に180 億円規模の収入を得る病院であり、優れた臨床科の集まりです。私の役割は、本学付属病院に愛着を持ち、献身的に働く「人の和」を大きく育てることです。数多くの優れた医師、看護師、技師、事務系職員が良いチームワークを育てていくことが大切です。院内横断的なチームの構築、裁量権の下部委譲などで効率化を果たし、さらに、上意下達だけではなく、院内各所からの積極的な提言を導き出し、そして、それらを実行に移さなければならないと考えています。

 最後に、国際的な活動からの印象です。私は昨年の5月からThe Association for Research in Vision and Ophthalmology (ARVO)のCornea Section のTrusteeをさせていただいています。13 人の各Trusteeと1 人のExecutive Vice President (EVP)で構成されるBoard of Trustee は、日本で言う理事会のようなものであり、ここでARVO の実務的な決定そして将来の方向性が検討されています。1 年半ほどのあいだの職務を通じて、米国人Trusteeと自分の考えの違い、表現方法の違い、そして言語バリアーなどに苦慮することがありましたが、結局は、自分の中の理念、絶対的な価値観そして未来像をしっかりと持つことが大切なことであることを学びました。それには、自分を知ることが第ーであり、さらに京都、日本、そして外国の文化・歴史と、その違いを学ぶことが重要なように感じています。

 府立医大眼科は明交会というしっかりとした同窓会を持っており、またこの組織がしっかりと機能しています。このことは一見当たり前のようなことですが、OB・OGと現役が一体となって強いクラブを作っていくようなものです。明交会諸氏には、日頃からのサポートへの感謝を申し上げますとともに、皆様が、幸多き一年を過ごされることをご祈念申し上げます。最後になりましたが、今年9 月23日の明交会総会ならびに懇親会で、谷道之名誉教授の米寿をお祝いすることになっております。まことにおめでたいことであり、喜ばしいことと存じております。(明交第45 号より)

2006平成18年

角膜疾患治療の変遷から学ぶ

 私は昭和49 年の医学部卒業です。研修を開始してから30 年以上、随分と時聞を経たものです。過去から学ぶことは未来を見通すためにも大切といわれますが、眼科についてもしかりであろうと思っています。そこで、思い出すままに眼科診療、特に私が専門とする角結膜疾患についての変遷、を振り返ってみます。

 約30 年前の角膜外来は、角膜感染症の治療、特に角膜ヘルペスと緑膿菌を主体とする細菌感染症への対処が主な仕事でした。当時は、角膜ヘルペスの治療薬剤としてIDUが登場してきて間もない頃でしたが、IDU はウイルス特異的ではなく、強い細胞毒性を示したために、またIDU 抵抗株の単純ヘルペスウイルスが数多く存在したために、臨床現場では地図状潰瘍や栄養障害性潰瘍、さらには角膜穿孔にしばしば遭遇したわけです。この難治な疾患を、自信を持って治せる時は永遠に来ないかもしれない、そのように感じた医師も多くいたに違いありません。しかし、1980 年代になって登場したアシクロビルは、角膜ヘルペスの治療法を激変させました。すなわち、数多くの難治性の角膜ヘルペスは見られなくなり、角膜ヘルペス患者は大病院ではなく個人診療所で治療されるようになりました。今も実質型角膜ヘルペスは見られますが、この多くは、上皮型角膜ヘルペスの治療時期が遅れたために生じているのであって、当時の悲惨な状態とは根本的に異なっています。効果のある薬剤が疾患群を消滅させる典型例を目の当たりにしたわけです。細菌感染症についても同様であり、ニューキノロン点眼薬の登場、特に第三世代以降のキノロン点眼薬の効果には目を見張るものがあり、緑膿菌であっても点眠薬だけで治せる時代を迎えています。一方で、最近になって増加している難治な感染症もあります。アカントアメーバ角膜炎、非定型抗酸菌による角膜炎、CMVを含めた単純ヘルペスウイルス属による角膜内皮炎、そしてMRSA 角膜感染症です。重症急性呼吸器症候群 (SARS) のような新興感染症が突如として発生してくるように、眼科領域でも常に新しい感染症に遭遇する可能性を念頭において日常臨床を行いたいものです。

 角膜内皮観察も面白い変化を遂げています。臨床用のススペキュラーマイクロスコープが登場したのが1980 年代初めですが、当初は接触型のスペキュラ一マイクロスコープであり、角膜内皮疾患の生体観察のために開発されたものでした。この機器の開発は臨床に大きなインパクトを与え、角膜中央部6mm 径ぐらいの部位を観察した広域スペキュラ一マイクロスコピーの報告も数多くなされました。この優れたスペキュラ一マイクロスコープが日本で開発されたこともあり、日本が角膜内皮観察のメッカとなったことも記憶に新しいところです。その後、非接触型スペキュラ一マイクロスコープが開発・改良、保険点数化され、白内障手術の術前検査などに日常的に利用されるようになってきました。おかげで安心して内眼手術が出来るようになりましたが、ただ、現在の非接触型スペキュラ一マイクロスコープは、角膜中央部の極く一部を観察するためのものであり、角膜内皮細胞の生体観察に関わる臨床研究は、接触型機器を用いて行われた1980 年代よりむしろ後退しています。物事は時代とともに進歩するはずではありますが、後退することもあることを教えてくれた貴重な一例と感じています。

 角膜疾患の外科的治療も大きな変遷をとげています。1974 年当時、眼科手術の殆どは肉眼的手術であり、唯一、角膜移植に初期の眼科用顕微鏡が使用されていました。当時のドナー角膜保存方法は未完成なものであり、眼球提供から2日以内に角膜移植を行わなければならないというものでした。その後の角膜保存方法の開発経緯が非常に面白いです。米国と日本では低温の中期間保存を目指し、欧州は組織培養保存による長期間保存を目指しました。この差異は現在も続いており、システムの汎用性という意味では米国型が優れているが、保存ドナーの質としては欧州型が優れていると私は感じています。さて、角膜移植そのものについてですが、当時は約20% が拒絶反応を生じ、拒絶反応の治療のための入院も数多くあったと記憶しています。しかし、現在の角膜移植後の拒絶反応率は5% 未満であり、このことで入院することは無くなりました。術後管理法の進歩によるところが大きいようです。技術的には、マイクロケラトームが一部に用いられるようになってきており、さらにフェムトセカンドレーザーを用いた角膜移植術が注目を集めています。エキシマレーザーによる角膜ジストロフィの治療が日常化しているように、レーザーの角膜疾患治療への関わりはますます増加してくるものと思われます。水疱性角膜症に対する移植方法では、角膜内皮と深層実質だけを移植するDescemet's stripping endothelialkeratoplasty (DSEK)も注目を集めています。ただ、角膜移植では、どのような手術方法がドナ一角膜内皮細胞を高密度で長期間生着させられるのかがポイントであり、今しばらくの間はこの方法の優劣に関わる結論は出ないであろうと思われます。

 我々が専門としているオキュラーサーフェイスも興味深いです。例えば周辺部角膜潰瘍の一つであるモーレン角膜潰瘍。1970 年代には、一旦発症すれば、失明に至ると考えられていた絶望的な疾患でした。この疾患は、現在では、適切な外科的治療とステロイドそしてシクロスポリンなどの免疫抑制剤を用いることにより、確実に寛解させられるようになっています。ドライアイやマイボーム腺関連疾患の治療方法も、疾患病態の理解により、大きな進歩を見せています。角膜幹細胞疲弊による重症オキュラーサーフェイス疾患への外科的治療方法の開発も進んでいます。30 年前には失明に至っていたであろう患者が、現在では、満足とはいえないまでも、日常生活が可能となる視力を保持できているのを見ると、医療の発展にエールを送りたくなります。

 今回は、角結膜疾患を例に取り上げましたが、白内障、緑内障、網膜・硝子体疾患、視機能・斜視疾患、そして眼形成疾患への取り組みでも同様な成果が得られています。医療の進歩を実感する日々を暮しています。(明交第44 号より)

2005平成17年

眼科医療における、米国と欧州、そしてアジアの関係を思う

 我々の眼科学教室は「be international」をモットーの一つに掲げています。おかげさまで、視覚と眼に関する学術会議(ARVO)や米国眼科学会(AAO) などの国際学会への出席を通して、多くの教室関係者の皆様が国際的な視野に立って活動しています。ただ、この国際的活動は米国的視点に立った場合が多いようです。私は、今年、春に英国のロンドンを、夏にベトナムのハノイを、そして9 月の始めにポルトガルのリスボンを訪れる機会がありました。ロンドンはMoorfields Eye Hospital の設立200 周年記念に招待されて、ハノイは医療援助活動をベトナムで行っている服部匡志君を支援するために、リスボンは欧州眼内レンズ屈折手術学会 (ESCRS) に出席するためでした。そこで米国の眼科医ではなく、他の国々の多くの眼科医と出会い、それぞれの国の歴史と文化に触れ、いくつかの感じることがありましたのでご紹介させていただきます。Moorfields Eye Hospitalはロンドン市内にある眼科病院です。欧州最大規模の眼科病院であり、数多くの患者が英国以外からも訪れます。また、オランダ、ドイツ、イタリアなどの多くの欧州の国々と旧大英帝国の国々から新進気鋭の眼科医が留学してきて、技術習得をして母国へ帰ります。したがって、我々が想像する以上に、欧州の眼科医やインド、オーストラリア、シンガポール、マレーシア、香港などの眼科医とMoorfields Eye Hospital は繋がりがあるようです。ご存知のように、臨床医は初期臨床トレーニングを受けた医育機関の診療の流儀や考え方に大きく影響されます。いわゆる刷り込みであり、このプロセスによって、それぞれの医育機関の「歴史と文化」が次世代に伝承されていきます。この意味では、Moorfields Eye Hospitalが過去200 年にわたり果たしてきた役割は極めて大きかったと思われます。米国の眼科医療機関への留学生が、日本、中国、韓国、台湾などのアジア諸国と南米諸国が主であることと比較すると面白い構図が浮かんできます。米国と英国の眼科医の関係も不思議です。一般的に言うと、米国眼科医はある意味で英国に親近感とともにわずかながらコンプレックスを感じているようでもあり、これは今の世代の先々代の頃には米国医師が英国へ留学することが多かったためかもしれません。Nature, Lancet が最初は英国系科学誌として発行されたものであり、一方、Science, New EnglandJournal of Medicine が米国系科学誌として発行されたものであることを、今までに述べてきたような背景を踏まえて眺めてみると面白いかもしれません。ちなみに、眼科学術雑誌でも、英国のBritish Journal of Ophthalmologyと米国のArchives of Ophthalmology やAmerican Journalof Ophthalmology では、投稿者の地域性や文化が微妙に異なっているように感じます。さらに、余談になりますが、米国眼科医のトップにはユダヤ系の人達が多く、イスラエルとは想像以上に親密な人達がいます。

 話をベトナムに移します。ベトナム、特にハノイを中心とした北部地域で3 年以上にわたって国際的な医療活動を行っている服部君を激励にハノイへ行ってきました。ハノイ国立眼科病院は一日外来患者数が1,000 人、入院患者数が300人、年間手術件数が30,000 件という巨大な眼科病院です。手術室は昨年に新築されて16 人の手術を同時に行うことが出来ます。服部君はここをベースとして、地方での開眼手術も積極的に行っており、一日に40 例を超える手術をすることも稀ではないようです。そして、何よりも、彼はベトナムの若手医師に網膜疾患や硝子体手術の教育を行うという重要なミッションを行っています。ベトナムの眼科医は極めてまじめで優秀ですので、良い教育と良い医療機器があれば医療環境はたちまちに良くなるように思います。また、服部君の紹介で私が角膜移植を行った3 人のベトナムの患者さんにも会ってきました。皆さん、想像以上に良く見えているようで喜んでいただきました。ただ、驚くことは、まともに診察に使えるスリットランプの少なさです。日本で廃棄処分になりそうなスリットランプのほうが、彼の地のものよりははるかによく見えるというのが実情です。医療事情は、ホーチミンのほうがハノイより一歩進んでいるようですが、それでも、ベトナムではエキシマレーザーはあってもハードコンタクトレンズはなく、角膜移植もなく、円錐角膜患者は失明に近い状態に扱われてしまいます。日本で行われている通常の治療方法を伝授するだけで、どれほど多くの人達が日常生活を行うことが出来るようになるかと思うと、医療は経済と文化のうえに成り立っていることを実感せざるを得ません。今まで述べてきましたような背景を踏まえて、ベトナムの医療、特にハノイ国立眼科病院を援助することは我々のミッションのーつとして大変に重要なことだと思っています。幸いにして「アジア失明予防の会」は駐ベトナム全権委任大使の服部さんや京都府総務部長の猿渡さんなどのお力添えで特定非営利活動法人(NPO) として認可になりました。いよいよ大きな活動をとれるようになったわけですので、明交会諸氏にはご支援のほどを宜しくお願い申し上げます。

 次に、ポルトガルで開催されたESCRS です。このESCRSはASCRS ほどの規模ではありませんが、欧州各国の参加者が混ざっているという意味で独特の雰囲気を醸し出しています。またユーロ圏として経済的障壁が無くなったということもあり、東欧と西欧の眼科医療の格差が急激になくなってきているように感じられます。学会発表の内容としては、phakicIOL の使用が自然のように議論され、DSEK (Descemet'sstripping endothelial keratoplasty) が脚光を浴び始めていたのが印象的でした。このような情報は欧州各国へ伝播することはもちろんのこと、アジア各国へも参加者やインターネットをとおして一瞬のうちに伝播していきます。また、ESCRS は、アジア各国で開催される学会とジョイントプログラムを積極的に組んでいこうとしており、最近ではマレーシア、近々には中国でこのようなプログラムを開催するようです。このような動きを見ていますと、米国も欧州も、それぞれの学会の影響力を強めようとして、アジア各国への医療教育を積極的に支援しようとしており、西欧の列強がかつてアジアへ進出してきたときを彷彿させるかのようです。

 このように見てきますと、世界のどこかで始まった新しい治療方法は、英語を日常的に使用する国々の眼科医にはあっという間に伝播していきます。それが良いのかどうかはともかくとして、インターネットとその第一の利用言語である英語が情報伝達の手段を大きく変えていることは間違いがありません。日本の眼科医もインターネットから英語圏の医学情報をより迅速に取り入れ、また発信していく必要がありそうです。(明交43号より)

2004平成16年

教室開講120 周年を祝う

 1884 年4 月1日に浅山郁次郎先生が京都府医学校(京都府立医大の前身)の眼科学初代教諭として赴任されてから、今年は数えて120 年の歳月を経たことになります。眼科学教室にとっては、まことにおめでたいことです。諸先輩が築いてこられた伝統は後輩へ、そしてさらに後輩へと受け継がれ、「信頼される府立医大眼科」が現在まで脈々と続いています。あらためて畏敬の念をいだく次第です。私は、以前にも明交のなかで述べたことがありますが、時間を区切るときには十進法より十二進法のほうを好んでいます。1 時聞は60分、1日は24 時間、1 年は12カ月、という身についた感覚です。我々は、小学校で6 年間、中学校と高校で6 年間、そして大学医学部で6 年間を過ごしてきました。1 年を一個の塊とすれば12 年はlダース、この12 年という時間の塊は、小学校入学から高校卒業まで、あるいは、中学校入学から大学医学部卒業まで、に相当します。私には何とも心地よい体感しやすい単位です。そうすると、120 年というのは、この12 年の一塊を10 回繰り返したという真におめでたい祝い年となります。還暦を二回繰り返したと言えるかもしれません。尤も、10 年単位を12 回繰り返したものと感じるのが普通で、私がへそ曲がりなのかもしれません。兎にも角にも、凄く長い時間を経たことには間違いがないようです。そこで、私なりにこの時聞を感じてみようと思って努力してみました。私が府立医大に赴任したのが1992 年、今年で12 年。ということは、これを逆戻りして10 回繰り返すと原点に立つことになります。Backto the future の世界です。その頃には、京都には眼疾患を診れる医者は多くて数人であったとされています。50 年前の1950 年の日本眼科学会会員数ですら1,575 名です。京都周辺を併せて、眼科医は数十人規模であったと想像されます。私が眼科研修を始めた1974 年(30 年前)には日本眼科学会会員数は3,630 人、それでも現在の四分のーです。眼科医師数が、診療内容の飛躍的な進歩とともに、ここ30 年で如何に爆発的に増えたかが窺い知れます。指数関数的な伸びともいえます。府立医大はこの間、古くから眼科の発展に大きく寄与してきました。小柳教授時代の「Vogt- 小柳病」、増田教授時代の「増田型漿液性綱脈絡膜症」、弓削教授時代の「弱視・斜視治療」、谷教授時代の「蛍光眼底造影」、糸井教授時代の「円錐角膜の治療」などはその代表的なものです。この記念すべき2004 年が、医療制度の大きな変革の時であることも間違いありません。スーパーローテイト方式の研修医制度が、今後どれほど大きな影響を眼科に与えるかは想像出来ません。旧国立大学が独立行政法人化により変革の波に飲み込まれようとしていることも事実です。自今以後の方針を決定する上で、従来型の思考だけに頼るのでは危険なことは間違いありません。しかし、単純な予測や不安から拙速に行動することはより危険であることも間違いありません。結局、本質は何か、王道は何か、を常に見極めて行く必要があるようです。その結果、私が得た今後の理念を、開講120年史の発刊の言葉から一部引用してみます。

 「それでは、現在の府立医大眼科が目指している目標を語ってみよう。我々は、教育、診療、研究という臨床教室の三本柱を、時間軸である過去、現在、未来と重ね合わせて考えている。教育は今までに確立してきた診療(過去)の伝承、診療は現状の知識と技術による診療サービス(現在)、研究はこれからの診療にかかわる研究開発(未来)ということになる。いずれもが最高の診療を行うことに繋がってくる。府立医大眼科は「臨床の府立」と呼ばれるべく努力する集団でありたいと願っている。この願いは120 年前に遡っても同じである。これに加えて、今を生きる我々は「府立医大眼科」というブランドを大切にし、さらにbe internationalというコンセプトを掲げている。世界のトップ医療機関のーつとして数えられるような高度な治療が出来る眼科を目指す、これが努力目標である。」

 今までの120 年同様、今後の120 年が光り輝くものとなるように、会員一同で精進したく思っています。(明交第42 号より)

2003平成15年

スーパーローテイト研修のもたらすもの

 平成16 年4 月から、卒後臨床研修制度の見直しで、いよいよスーパーローテイト方式の研修が始まります。この制度の特徴は、1) 研修医に2 年間の研修を義務付けていること、2) 多くの研修指定病院がマッチングプログラムに基づいて研修医を採用すること、3) 大学付属病院での研修医受け入れ枠が少なくなること、そして4) 研修が必修科目と選択科目に分かれること、です。第一の事項である研修医の2 年間の研修義務化は、府立医大付属病院では、国の示す基準である1カ月の給与30 万円でスター卜します。15 万円を国が負担し、残りの15 万円を研修施設が負担するものです。名目的には朝9 時から夕方5 時までの勤務、そしてアルバイトは禁止となります。この制度を昭和40 年代に廃止されたインターン制度の復活と見る人もいれば、大学医学部教育が6 年間から8 年間になったようなものだと捉える人もいます。私は、理想的には、大学教育を8 年間にして、6 年で医師仮免許証を発行し、その後の2 年聞をスーパーローテイト方式で大学付属病院で修練するのが良いように思っています。第二の事項はマッチングプログラムです。これは研修を必ずしも卒業した大学で開始するのではなく、米国のように、出身大学とは異なった大学付属病院などで行うことを薦める狙いがあります。ただ、実際には、大多数の大学が、大学付属病院および関連病院で卒業生が研修できるように努力しており、実態は骨抜きになりつつあるようです。第三は受入研修医数です。たとえば、府立医大では研修医一年目を140 名程度今まで採用してきましたが、これが平成16 年度は67 名になります。もっとも、たすき掛け方式を採用するため、さらに53 名は関連の協力病院で研修をスタートしますので、名目的には120 名の研修医によるスーパーローテイトを実施することになります。また、関連病院でも独自にストレート方式で研修医を確保しようとする動きもあります。ここで素朴な疑問が生じてきます。各科をローテイトする研修医は、医療現場の助けとして本当に役立つのか? それとも、教育義務だけが残り、足手まといになるのか?というものです。必修科目を指導する先生方への物理的負担は相当のものであると想像されますし、リスクマネージメントについては大変に心配になってきます。第四は選択科目の立場です。眼科、耳鼻咽喉科、皮膚科、整形外科、放射線科、脳神経外科などが選択科目となり、我々の場合、研修医とまったく接点を持たない可能性が出てきます。さらに、労働力として頼りにしていた研修医はいなくなり、診療体制そのものの見直しが要求されます。このことは平成17 年4 月に本当の危機を迎えることになります。私は学園紛争時代に大学へ入学した世代ですので、殊のほか今回のスーパーローテイ卜には反応してしまいます。私の大学入学試験は学外で厳重な警備のもとに行われましたし、大学2 年生の授業はほとんど行われませんでした。このような大規模な学園紛争の引き金になったのは、医学部のインターンシップ廃止、そして大学医局制度の抜本的改革の要求でした。それ以降、我々がたどった時代の変遷は、日本列島改造論によるー県ー医学部の設置に始まる医師過剰時代への突入でした。当時、すでに多くの人が現状を予測していましたが、将来のこととして真剣に対応しなかったことは遺憾であるとしか言いようがありません。

 大上段に構えた総論はこれぐらいにして、各論を考えてみましょう。スーパーローテイトを終えた研修医は、どのようにして眼科研修を始めることになるのでしょう。彼ら、彼女らは眼科を選択科目として2 ー6カ月間の初期研修を行うことは可能です。しかし、研修指定病院がスーパーローテイトを行っている場合、その病院の常勤医も忙しく、おそらく研修医に十分な教育を施すことは不可能であろうと思われます。ということは、たすき掛け方式で、二年目研修を大学付属病院で行う人だけが、それなりの選択科目研修を行うことが出来るということになります。つまり、スーパーローテイト方式において、選択科目研修をしっかりと行うことはほぼ不可能だということになります。必然的に、卒後3 年目の医員 (レジデント: 修練医)としての受け入れ、さらにはポスト・スーパーローテイトの抜本的なシステム改革が同時に必要になってくるはずです。府立医大付属病院では、レジデントポストの増員を要求し、このことに対処しようとしていますが、実際には研修医とレジデントあわせて300 名という枠組みを取り払うことにはかなりの困難が生じそうです。つきつめると、レジデントを280 名ぐらいにして、研修医を20 名程度にするといった案も飛び出してきます。まさに厚生労働省の考える研修医を大学から切り離すといった考え方です。このような研修システムの変革とともに、眼科志望者が適切な初期研修を行えるシステムを早急に整備する必要がありそうです。同窓会の先生方には、この大変革の波をご理解いただきまして、ご協力を賜りますように切にお願いする次第です。(明交第41 号より)

2002平成14年

ケンブリッジで想う

 この9 月はじめに第32 回Cambridge OphthalmologicalSymposium に招待され、英国のケンブリッジに行ってきました。久しぶりに胸にこみ上げてくるような感動を覚えました。ケンブリッジは世界有数の大学町として知られ、700 年のあいだに著名な建築家が手がけた美しいコレッジ建築の集合体であり、30 余のカレッジ群からなっています。有名なキングスカレッジ、トリニティカレッジ、セント・ジョンズカレッジなどが相接して並び、その林立する石造の建築物は中世の城塞のようであり、緑が眩しい芝生の大きなコートヤードと不思議な調和を見せていました。ここで育ち翔いたのは、自然科学者のニュートンやダーウイン、文学者のミルトンやワーズワース、そして清教徒革命の震源となるカートライトやクロムウェル。数十名のノーベル賞受賞者を輩出した町。歴史上の登場人物が勉学に勤しんだ同じ学び舎で、21 世紀の今も学生が学問をしている!アングロ・サクソンの知識の源流を垣間見た思いがしました。今、日本で行われている大学の機構改革に失われているもの、「学問への畏敬と感動」、それがここには確実にあるように感じられました。パラダイムシフトをもたらした発明、発見がなされた大学、ケンブリッジ。インターネットや俗世界から隔離された大学寄宿舎。何から何まで不思議な雰囲気を醸しだしていました。そこにいるだけで、書を読み、思索に耽りたくなる雰囲気、そして環境がケンブリッジにはありました。何につけても環境づくりが非常に大切であると痛感した次第です。ここには、皆さんご存知のCambridge University Pressというのがあります。世界最古の印刷・出版を手がける会社ですが、1584 年に最初の公共出版物を出して以来、現在まで途絶えることなくアカデミックな出版活動を行ってきたようです。関が原の合戦以前から続いているというのは全くの驚きですし、その継続力には圧倒されてしまいます。

 さて、日本の大学、特に医学部を取り巻く環境は激変しつつあります。まず教育ですが、学部教育ではオスキー(OSCE)の導入、卒後研修ではスーパーローテイトの導入。次に研究ですが、いわゆるトップ30(現在では21 世紀COEプログラム)や大型研究プロジェクトの獲得合戦。そして臨床ですが、研修医数の大幅減、医療サービスの向上、、、。さらにはこれらを見据えた大学統廃合。これらが平成16 年度には津波のように押し寄せてくるのです。この余波は、病院へ、診療所へと次第に影響を及ぼしていくことでしょう。受け手の我々の側に確固たる理念とプロスぺクトが無ければ、この波に本当に押し流されてしまいます。このようななかで、私は、国際的視野にたって基盤となる総論的考えをもつことが最良の方法と考えています。時の流れにまかせ、大上段にかまえ、創造的な考えを持つ。それにはケンブリッジと同じような雰囲気を持つ町、京都を内なるものに持ち、たおやかに生きることから始まるのかも知れません。(明交第40 号より)

2001平成13年

地球交響曲ガイアシンフォニー

 この巻頭言を書こうとしていたときに、9 月11日に米国で起こった同時多発テロ事件が飛びでてきました。大変に悲惨な事件ではありますが、文化 (culture) の差異に端を発したことであり、報復を是とするか非とするかを即答できるような簡単な問題ではないと感じました。ところで、文化(culture) と文明 (civilization) にはニュアンスに明らかな違いがあるようです。広辞苑によりますと、いずれも人間が自然に加えて形成してきた物心両面の成果であり、衣食住を、学問、芸術、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容とを含んでいるとされています。このなかで、人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、技術的発展にかかわるニュアンスが強いものを文明として区別しているようです。20 世紀の発展した文明の末にたどりついた異文化の軋轢。これは、我々がこれから真剣に考えていかねばならない問題であり、現状では解決方法は全く分からないと言わざるを得ないようです。

 この事件が起こる10日ほど前、私は縁あって「地球交響曲ガイアシンフォニー第4 番」という映画の試写会に行ってきました。第55 回日本臨床眼科学会関連イベントとの関係でこの映画を見に行ったわけですが、この中に出演した世界的に著明な4 人から、実に示唆に富むメッセージが送られてきました。共感する感性、思考、そして言葉です。巻頭言に映画感想文のようなことを書くのが良いのかどうかは分かりませんが、今年はこれを紹介したく思います。

 James Lovelock (ジェームズ・ラブロック)は1919 年英国生まれの生物物理学者。地球上のすべての生命、空気、水、土などが有機的につながって生きており、地球はそれ自体が大きな生命体であるという「ガイア(GAIA)理論」の提唱者です。彼は、幼少時から、自分の疑問には自分で答えるということを信条とし、さまざまな宇宙物理的な探査機器などを考案してきました。彼からのメッセージは be an individual(独立した自分であれ)。個人主義であれというのではなく、個を大切にしてこそ全体の調和が出来てくるので、自分の個性を大切にしようというものでした。

 Gerry Lopez(ジェリー・ロペス)は1948 年ハワイ生まれのレジェンド・サーファー。30 分のサーフィンをするために毎日8 時間以上も海上で波を待つという。この波を待つあいだに地球の大きさ、自然の偉大さに圧倒されていくという。一芸をなした人からのメッセージは、Don’t give up. Keeppaddling(あきらめないで、こぎ続けること)。継続は力なりでした。

 Jane Goodall(ジェーン・グドール)は1934 年英国生まれの野生チンパンジー研究家であり環境教育活動家。26 歳のとき、人類学者ルイス・リーキの薦めでタンザニアのジャングルに入り、チンパンジーのフィールド研究を始め、霊長類学会で画期的な発表をし、生命に対する大きな感動をもたらしてきました。自伝「Reason for Hope」にあるように、彼女からのメッセージは Hope, Love, Understanding(希望、愛、わかりあうこと)。言葉がなくても、相手を思いやる感性があれば、人間とチンパンジーがわかりあえるということ。いわんや人間においてをや、ということです。

 名嘉 睦稔(なか ぼくねん)は1953 年沖縄生まれの版画家。少年時代に孤島で育った彼は、少年の魂を持ちつづけながら成長し、気が付くと版画家になっていたという独特のスピリットを持ちつづける人です。彼のメッセージは「幸せは減らない」。すべての人が幸せになっても、不幸になる人はいない。幸せとはそのようなものだから、皆が幸せになろうというメッセージです。

 私は、今、自分自身が出来ることを一生懸命し、そして周りの人々、特に患者さん、に幸せをもたらすことが出来れば、自分が幸せを感じられるように思います。眼科医になって本当に良かったと思っています。とりとめもない私のパーソナルな思いを巻頭言に書いてしまいました。こんな私と約10 年間お付き合いいただき、それなりに許容していただきました教室の関係各位ならびに明交会の諸先生方には感謝で一杯です。(明交第39 号より)

2000平成12年

ふたたび屈折矯正手術について

 前回の明交第36 号で屈折矯正手術のお話をしましたが、今回も引き続いてお話をさせていただきます。

 今年の1 月末に、屈折矯正用のアルゴリズムを装備したエキシマレーザーが厚生省により医療用具として正式認可されました。この認可により、photorefractive keratectomy(PRK)とLaser in situ keratomileusis (LASIK) がある程度のコンセンサスをもって行える状況を迎えました。ただし、LASIK に使用するマイクロケラトームは手術器具としての承認は受けていますが、LASIK への使用は未承認という暖昧な状態にあります。ですから、マイクロケラトームをLASIK に使用する場合は、医師の個人的判断によるという考え方に立つ必要があるわけです。いずれにしましても、エキシマレーザー屈折矯正手術がおおむね日本の社会に認められたという点で、西暦2000 年は記念すべき年ということになります。

 日本眼科学会は、このエキシマレーザー厚生省認可を受けて、屈折矯正手術のガイドラインを作成しました。このガイドラインによりますと、エキシマレーザー手術は-3D から-6D の近視の方を対象とし、-6D から-10D の方ではそれなりの医学的理由を必要とするとされています。さらに-10D 以上の方には行ってはならないとされています。患者さんの年齢は20 歳以上、両眼手術の場合にはPRK で1 ヶ月以上、LASIK で1週間以上の間隔をあけること、となっています。一般にガイドラインは標準化を目的としていますが、世界的な傾向となっている両眼同時手術のことは多くの施設でガイドラインとズレを生じやすいのではとないかと想像しています。両眼同時手術と片眼手術の危険度に差がないという客観的データがすみやかに示されて、ガイドラインが修正されていくことを期待しています。しかし、当面のあいだは、個別の患者さんで、ガイドラインと異なったことを行う場合には、十分なインフォームド・コンセントを行う必要があると我々は考えています。

 我々、府立医大眼科のこの手術に対する取り組みはというと以下のようなことになっています。まず、-10D 未満の近視に対しては、関連病院のパプテスト眼科クリニックで今年l 月から約150 例ほどのLASIKを行っています。いずれも安全で屈折矯正誤差の少ない手術結果を得ており、順調な立ちあげを行えたと安堵しています。今秋には、大学病院で二つの臨床試験を控えており、一つは遠視矯正を目的としたLASIK、もう一つは第三世代のエキシマレーザー装置とマイクロケラトームによる近視矯正LASIK です。

 さて、今年、米国では約100 万件、日本では約l 万5 千件のLASIK が行われるであろうと予測されており、眼内レンズが認可された昭和60 年当時と酷似した状況と思われます。したがって、ここ数年のうちには日本国内でも30-50 万件のLASIK 手術が行われる可能性が高く、日本の眼科医療へのインパクトも相当なものであろうと予想されます。21 世紀になって、眼科医療がどのような方向へ進むのかはいまだ不明瞭ですが、LASIKを含めた屈折矯正手術が主要な位置を占めてくることは間違いのないことでしょう。それに伴って、サービス、アメニティといった我々が診療現場で少し抵抗を感じてきたような事柄も重要視されてくるものと想像しています。今後、医療は仁術、慈心妙手、といった考えとともに、医療はサービスといった考えを持つ必要が出てきそうです。この流れは、特にLASIKを始めとする屈折矯正手術から起こってくるものと思われます。(明交第38 号より)

1999平成11年

エキシマレーザー手術の夜明け

 今回は、屈折矯正手術の動向についてすこしお話をさせていただきます。屈折矯正手術の多くは、皆さんがご存知のように、角膜屈折力を変化させる手術です。このなかで、エキシマレーザーを用いた屈折矯正手術がいよいよ公式に認知される時を迎えようとしています。何故なら、今年6 月に開催された厚生省の調査会において、ニデック社のエキシマレーザーがPRK(photorefractive keratectomy)に使用することを認められ、今年中には厚生省の正式認可を得るであろうということになっているからです。もうひとつのVISX 社のエキシマレーザーも、PRK に関して近々に承認されるであろうということになっています。そうしますと、西暦2000 年はエキシマレーザー元年となり、IOL が認可された1985 年(昭和60年)のような激変の時になるはずです。そのせいか、全国各地でエキシマレーザーが飛ぶように売れ始めています。京都地域では、私の知る限りでは、バプテスト眼科クリニックにあるニデック社とVISX 社の二つのエキシマレーザー、そして府立医大眼科にある臨床試験用のニデック社エキシマレーザーの三台が設置されているだけだと思いますが、今後はまったく未知数ということになります。

 さて、それでは、エキシマレーザーを用いてどのような屈折矯正手術が出来るのでしょうか? そして, その効果はどのようなものなのでしょうか?皆さんがご存知のように、エキシマレーザーを用いた屈折矯正手術としては、PRKとLASIK(Laser in situ keratomileusis)の二つが代表的です。巷のうわさでは、LASIK がPRK に優っているということになっています。LASIK では痛くなくて直ぐに良く見えるようになるが、PRK では視力が出るのに時間がかかり、しかも痛いということです。果たしてどちらが優れているかは、 長期経過をみてみないと即答は出来ないことですし、この分野はコンセプトが簡単に変わりますので、人の言うことを鵜呑みにすると危険なところがあります。

 我々の限られた臨床経験からお話しますと、現在のエキシマレーザー機器はハード、ソフトの両面からみて、臨床試験を行っていた数年前とは比較にならないほどに進歩しています。したがって、PRK であっても、その精度も安全性も格段に増しており、10ジオプトリーまでの近視矯正であれば、かなり自信を持って行うことが出来ますし、1 週後には良好な視力が得られています。LASIK では、手術の重要な部分が、エキシマレーザーではなくマイクロケラトームに依存していますので、私にとっては安全で精巧なマイクロケラトームが入手できるようになれば、その時がLASIKを多数例に適用する時のような気がします。その間は、あくまで遠視矯正やLASIKを希望する限られた方々を対象とすることになるのでしょう。エキシマレーザー手術では, 術前の屈折度の検査がポイントであり、屈折矯正についての知識、調節についての知識などが非常に重要になってきます。そして屈折矯正手術とは一見関係のない眼瞼縁とマイボーム腺の状態をよく把握することが, 術後感染の予防に必須のことになってきます。さらに、手術前に行うインフォームド・コンセントは何にもまして大切です。決して片手間に出来るようなものではありません。屈折矯正手術をもしご希望の方がおられましたら、また、このような手術に関心のある先生方は、是非我々の方へご一報いただければ幸甚に存じます。(明交第37 号より)

1998平成10年

3 年、6 年、12 年

 今年は過去6 年間のまとめとして、6th AnniversaryReport 1998 を英文で発行し、明交会員ならびに多くの関係者にお届けいたしました。この発行には明交会後援会から多大なご援助を賜りました。ここに厚く御礼申し上げます。

 さて、このレポートを作る過程で若い人達に分かっていただきたいと感じたことがいくつかありますので、以下に述べてみます。まず、時間の区切りについてです。時間の大きな区切りをどのように考えるかは人さまざまです。5 年、10 年と数字として切りの良いところで区切られる方もあれば、私のように3年、6 年、12 年といったように区切る少し変な人間もいるでしょう(ビールやジュースもhalf dozen (6 本) やdozen (12 本)と数えて売られています)。私の場合、小学校は6 年、中学校は3 年、高校は3 年、大学は6 年、海外在住3 年、というふうに3 の倍数の年数がひと固まりとなった人生を歩んできたように思います。何よりも「持続は力なり」というコンセプトで生きてきた私は、石の上にも3 年という諺が大好きなわけで、3 年を1タームとして数えるようになった次第です。ちなみに、1 年は12 ヶ月、月の固まりは3 ヶ月が4 つ繰り返してl 年と数えています。そこで、ある人間が3 年間でどれぐらいのことが出来るのか考えてみるとしましょう。それは研修医の成長を見ていればすぐに分かります。大学院生の成長を見ていればわかります。子供の成長を見ていてもわかります。そして、何よりも自分の3年間を振り返ればすぐにわかります。実に多くのことを成し遂げる事が出来ますし、一方、無為無策に過ごすことも可能です。私の教室での最初の3 年間は適応(adaptation) の3年間、次の3 年間は国際化(international)のドアをたたいた3 年間でした。単純なことですが、自分の時間をある固まりとしてとらえることを若い方々には是非ともお奨めします。

 次に、言葉のことを少し考えてみたく思います。文章を書いたり人前で話をしたりということは本当に大変なことですし、その人の人となりが自ずと表現されてきます。極端に言えば、本人の文化、教養が露呈するということになります。そこで、自意識が過剰になると、すなわち自分をよく見せようということになると、金縛りにあったように文章が書けなくなってしまいます。雑誌明交の発刊は、弓削名誉教授が内容や文章はともかく、「皆さんどんどん練習をかねて寄稿しましょう」という趣旨で始められました。この発刊趣旨をふまえて雑誌明交を読んでみますと、皆さんが、実にのびやかな素敵な寄稿文を書いておられる事に感心いたします。これからの若い方々は先輩を是非とも見習って、さまざまな自分の思いを寄稿していっていただきたく思います。そもそも医師は、高い教養と医療技術をもって廻りの人から尊敬を得てきたわけですが、昨今の時代を迎えて、医療技術の高さのみが評価されるような傾向になってきました。少なくとも府立医大眼科グループ、すなわち明交会員は、崇高な倫理感と高い教養を併せ持つ集団でありたいと願っています。

 第三に、コミュニケーションツールとしての外国語(特に英語) についてです。例えば、日本人は英語について苦手意識があります。私も同様です。しかし、我々にとって母国語でないという事実はいかんともし難いことですし、コンピュータと電子メール(e-mail)が発達した現在、英語圏の住人以外は言葉のハンディキャップを持った人達ということになってしまいます。そして、言語がその国の文化とも密接に関係している以上、優位に立った言語(英語)の文化が急激に浸透してくるという結果を招くことになります。ビッグバンやボーダレス化にともなう我が国の政治と経済の混乱には、このことが大いに関係していると私は想像しています。そこで、我々が本当にインターナショナルに対等にやっていくためには、言葉のハンディキャップについての、ある程度のリハビリテーションが必要なはずです。少なくとも社会復帰できる程度のトレーニングが必要です。語学は人と人とのコミュニケーションツールですから、机上で学ぶものだけでは無理でしょうし、幅広く相手のバックグラウンドを理解する必要があるでしょう。日本と欧米の文化の違い、考え方の違いを学ぶことも語学トレーニングには必須のことのような気がします。特に若い方々は、国際感覚と語学をしっかりと身につけて、これからの大変革期を乗り切っていただければと思います。時代は常にダイナミックに動いており、今、すべてに積極的に取り組むことで、自分自身を活かせるような時代がようやく到来したような気がしています。(明交第36 号より)

1997平成9年

屈折矯正手術の捉えられ方

 屈折矯正手術がどのように発展するかは、医学的にみても社会的にみても非常に重要な事柄と思います。ここ数カ月の間に、中国本土、韓国、台湾そして米国におけるエキシマレーザー屈折矯正手術の現場に触れる機会があり、大いに感ずるところがありましたので、私見を以下に記してみます。世界的にみて、屈折矯正手術の手術方法がRK 手術のような角膜切開手術からレーザ一手術へ移行しつつあることは紛れもない事実であり、エキシマレーザーを用いた近視矯正術 (photorefractive keratectomy:PRK) は、Summit社とVISX 杜エキシマレーザーのFDA 認可にしたがい、本邦を除く世界の医療現場でほぼ容認されたように思われます。さらに、このエキシマレーザーを用いたLaser in situkeratomileusis (LASIK) は視力回復の迅速さと疼痛の軽減を謳い文句にして急速な広がりを見せています。アジアの近隣諸国である中国、台湾、韓国、フィリピン、シンガポール、環太平洋諸国であるカナダ、米国、メキシコ、オーストラリア等々、いずれの地域においても数多くのPRK 手術が日常臨床の場で行われており、LASIK への移行が真剣に取りざたされています。この事実がエキシマレーザーの安全性を即保証するわけではありませんが、少なくとも本邦と諸外国でエキシマレーザー手術に対する認識と行動に大きなギャップがあることは否めないようです。例えば、エキシマレーザ一手術は、臨床の場で使用しえるだけの安全性を確立していると欧米では理解されていますが、本邦では必ずしも安全とは考えられていません。PRK 手術後の上皮下混濁 (haze) の発生の可能性、長期的な角膜内皮障害の可能性、照射部位の細胞変異の可能性、LASIK 手術のマイクロケラトームの生ずる諸問題等、未知のことを含んでいる以上、不安材料は数え上げればきりがありません。しかし、エキシマレーザ一手術の適応を充分に考慮し、インフォームド・コンセントを充分に行うという条件付きであれば、我々のPRK 臨床試験でも3 年以上のあいだ安定した術後屈折度を示している例が多く、術者、患者ともに満足度は高いものとなっています。

 さて、本邦では、非眼科医による屈折矯正手術がとりざたされています。また米国ではHMO 医療保険とのからみで医療経済的側面がクローズアップされており、この手術の倫理面の印象をより悪くしている感があります。しかし、中国本土、韓国、台湾そして米国では、屈折矯正手術を専門とする眼科医が、この手術に非常に真面目に取り組んでいるのも事実です。一般に、新しい医療技術を社会に導入する場合、我々は、原理原則の基軸に照らし合わせて様々な倫理的な問いに答え、その是非を決定することが必要です。ところが、屈折度の手術的矯正の是非については曖昧模糊となっています。この理由は、屈折手術が美容形成手術の延長として捉えられがちであり、医療従事者にはピアスやカラーコンタクトレンズと大同小異との印象をもたれがちなためと思われます。しかし、屈折矯正手術に関する是非は、米国で屈折矯正手術を望む多くの人がスポーツやアウトドアライフに良好な裸眼視力が必要と考える中年であることを考え併せますと、眼鏡やコンタクトレンズといった屈折矯正手段なしに見られる3 次元的空間の広がりをどれほど大切と考えるかにかかっているように思えます。(明交第35 号より)

1996平成8年

組織ネットワークシステムのあり方を考える

 今回の雑誌「明交」では、今年4月に亡くなられた糸井素ー名誉教授を偲ぶ追悼文を掲載させていただきました。糸井名誉教授は、眼科の未来について予知能力を存分に発揮された希有な先生で、10 年前の新しい眼科の発刊の辞には以下のような言葉が記されています。「人類社会は、今、通信やエレクトロニクスなどの新しいテクノロジーにより変貌を始めつつある。変革のうねりはまだ小さいが、やがて大きな津波となり、産業革命から200 年たった今、人類社会を直撃し、新しい革命を起こそうとしている。21 世紀の社会が、バラ色のユートピアとなるか、破滅の路をたどるのかは、神のみが知るが、社会のどの分野もこの革命から逃れることはできない。今、日本では、国民の誰もが医療とそれを取り巻く環境が大きく動き始めたことを肌で感じている。(中略) これは、社会全体をおそう変革の大波が、医療の分野をゆっくりと、だが確実に巻き込みはじめたために起こった動きであり、今後さらに加速して、既存のシステムすべてを破壊しかねないエネルギーを秘めている。はげしい変革の時代には、眼を大きく見聞き、目標と周囲の状況を見極めなければ、ともすると道を誤ってしまう。」現在の医療を取り巻くさまざまな出来事を、糸井先生が10 年前に既に予測していたような文章です。先生の先見性に感嘆するとともに、私自身もこのような物の見方を学んでいきたく考えています。

 さて、話は大きく変わりますが、最近某出版社から出版された「ネットワークシステムの使い方」という本の序文を読んでいて、大変面白い言葉に出会いました。それは「ネオダマ」というコンピュータ関係者の業界用語です。ネオ (新しい) ダマ (弾) とも読めるのですが、実際には以下のような4 つのキーワードの頭文字を取ったものでした。ネはネットワーク、オはオープン化、ダはダウンサイジング、そしてマはマルチメディアです。この「ネオダマ」はコンピュータ業界のみならず、私が理想として描き求めていたDepartment ofOphthalmology の組織システムのありかたをも的確に表現したものでした。「ネットワーク」は言葉どおりさまざまな意味での連携を意味します。教室内の専門外来の連携、研究グループの連携、病病や病診連携、大学間の連携、国際的な連携、数え上げればきりがありません。一人の力、一つの施設で出来ることは限られていますし、医療現場のネットワーク化こそが医療サービスを高水準に保てる数少ない手段のーつと考えられます。「オープン化」は、組織における人や情報などについて、国内外を問わず積極的に門戸を開放することを意味します。自由主義経済の発展からも想像できるように、組織システムの老朽化を防ぎ、競争力を育む効率的な方法です。「ダウンサイジング」は経営・経済的効率を考えるときに特に求められる事柄かも知れません。大型コンピュータによる中央集権型情報システムが行き詰まりをみせはじめ、インターネットの爆発的な普及に見られるように分散型情報システムが主流になってきている現在、多様なニーズに瞬時に対応できる組織システムは分散型と言わざるを得ません。すなわち組織の各人が一定のルールと責任体制のもとに自立し、物事に積極的にかかわっていくということです。「眼科学教室という組織システム」を本当に充実させていくためには、何事においても「一定のルールのもとでの集中より分散」を基本理念にしていく必要がありそうです。大艦巨砲主義が脆いことはさまざまな歴史の事象が証明しています。そして「マルチメディア」は放送・映像・活字情報などがコンピュータを中心にして統合したものですが、ここでは、さまざまな個性や情報を持った媒体(人々)を組織内に集合させ、融合させることを意味します。このような状況が組織システムを励起状態に保つであろうという訳です。

 このように、とかく保守的になりがちな組織、Departmentof Ophthalmology、に常に新風を吹き込み、未来に柔軟に対応できるシステムを構築するためには、「ネオダマ」というコンセプトは必須のものであると感じています。「組織と個人」難しい命題ですが、私は良い組織は肥えた土地のようなものと考えています。個人という苗を育てるためには、皆で組織という土地を肥沃にすることが非常に大切になってくるのではないでしょうか。(明交第34 号より)

1995平成7年

弓削経一先生のある本のふしふし

 私が赴任して3 年余。そこで、少しできてきた心のゆとりで「明交」の発刊の経緯や掲載文を紐解いてみました。今回が第33 号となる本誌のその発刊の経緯は、懐かしい写真のコーナーの始めに復刻した故弓削経一教授の「発刊の辞」にすべてが集約されています。この文面を私なりに解釈すれば、発刊の第一の目的は教室員への「自縄自縛と有言実行」のすすめであり、第二は同窓老百の娯楽雑誌の製作であったと思われます。「楽しくかつ誇りを持てる教室」をスローガンの一つにしている我々の思いと全く共通するものであり、何十年を経ても、教室をあずかるものの思いは非常に類似しているようであると感じました。

 次に「明交」第2 号を開けてみました。そこで、弓削先生の書かれた「ある本のふしふし」というおもしろい文章に出会いました。弓削先生が読まれて印象に残った文章とそれに対する先生の一言からなったものです。私が日々感じていたことを、まさに言い当てた内容でしたので、以下にいくつかの文章を抜粋してみます。

 「感覚されたものはただちに理解されるものではなく、理解されたものだけがより深く感覚されることになる。」記憶は深い感覚から生まれる。従って理解を要する。「或る個人の知識は直接に経験したものと間接に経験したものとの二つの部分から成っている。」自分の経験を広めるために他人の経験を利用する。したがって文献を読むときには、眼光を紙背に徹して読まなければならない。他人の認識を受け入れる前に、他人の感覚したものの正しさを検討しなければならない。「知識を得たいならば、現実を変革する実践に参加しなければならない。梨のうまみを知りたいならば、自分でそれを食べて、梨を変革しなければならない。」机上の空論では学問の進歩はとげられない。「認識は実践にはじまり、実践を通じて理論的認識に達し、さらにふたたび実践へかえってゆかねばならない。」診療は我々の認識の紐である。眼科医をしていても、やり方によっては人生を、社会を理解して行くことが出来るように思う。理解してさてどうしょうかが凡非の岐路であろう。若い人よ、只ひたすらに突進せよ。眼前のものごとを常にポジテイプに捉え、全力で対処する。これがあらゆる局面を楽しく上手に乗り切る秘訣ではないでしょうか。

 私としても今回は本当に勉強になりました。次号からは、眼科の未来をみつめて、自分の思いを自分の言葉で書いてみるつもりです。(明交第33 号より)

1994平成6年

明交会と雑誌明交が目指すもの

 64 回目の明交会総会がやってきました。総会は、多くの先輩、同輩、後輩が大学に集い、同窓生の発表を聞き、そしてエールを送る会、また、懇親会は、それぞれの一年間の無事を祝い、楽しく語らう、そのような時間として使いたいものです。幸いにして明交会総会には例年多くの先生方が集ってこられました。これからも、皆様が待ち望む総会になるよう努力してまいりますので、いろいろなご意見をお寄せいただければ幸いです。なお、明交会の集まりは年に二回行われています。ひとつは9 月23日秋分の日の明交会総会です。今ひとつは12 月第3 土曜の明交会忘年会です。忘年会の方にも一人でも多くの先生が参加して下さるようにお待ちしております。明交会理事会は明交会総会の昼休み、明交会忘年会の前、そして京都眼科学会の前日と、計3 回開催されています。この理事会の議事録は雑誌明交の中に掲載されております。

 さて、この紙面をお借りして雑誌明交がどのような方向を目指しているかを少しお話させていただきます。まず本誌が会員相互の親交の橋渡しの役割と明交会に関する正確な記録簿としての役割を担うことです。このような意味で、今年から会員だよりのコーナーを設けました。来年からは白黒写真も歓迎しようと考えています。少しでも多くの方からご連絡いただければ、楽しく読めるコーナーになると思いますので引き続きよろしくお願いいたします。次に本誌が府立医大眼科の臨床、研究、教育、人事に関する記録、図書目録などを後世に正確に伝えることです。きっといつか役立つであろうと考えています。今年は、これらの記録のなかで、図書目録の整備を行ってみました。今後、利用者が増えることを祈っております。

 次に「府立医大眼科」がどのような姿を目指しているかについて簡単に触れてみたく思います。まず第一は、昨年も述べましたように、「充実した臨床」です。質の高い世界のトップレベルの診療を行うためには、知識、情報、技量すべてに最先端である必要があります。教室では臨床の専門グループを大きく四つに分け、角膜、緑内障、網膜・硝子体、視機能とし、日夜努力を続けており、それぞれの外来診療、手術内容もかなり充実してきたように思います。次に「おおらかな心」と「温かい心」で患者さんと接することが出来る我々の心を養うことです。新体制の二年半が過ぎようとしていますが、これからもご指導ご鞭撻のほどをお願い申し上げます。

 なお、最後になりましたが、昨年度の明交会理事会で、京都府立医科大学眼科学教室の開講は浅山郁次郎先生が着任された1884 年4 月とすることが再確認されました。したがって、本年は開講110 周年を迎えたことになります。若い先生方には、伝統ある教室に籍を置いていることを誇りにしていただければ幸いです。(明交第32 号より)

1993平成5年

楽しくかつ誇りを持てる教室を目指して

 明交会総会の季節がやってきました。1 年に一回、親しい面々が揃うのは大変に嬉しいものです。今年は明交会にとって記念すべき慶事が3 つ続きました。稲富昭太先生の滋賀医科大学副学長ご退官、深見嘉一郎先生の福井医科大学眼科学教授ご退官、そして赤木好男先生の福井医科大学眼科学教授ご就任です。この1 年間が明交会にとって大きな節目の年であったことには間違いがないようです。

 さて、我々「府立医大」の眼科教室員も大きな変革の中で明交会との交流を深めるべく、また新しい情報発進基地としての役割を果たすべく、この1 年間にいくつかの企画を立てて実行いたしました。その一つは府立医大眼科ニュースの発刊です。1年に2回( 1月と5月) の新聞と雑誌明交を併せれば、皆様との密接な交流が保てるのではないかと考えたからです。次に府立医大限科フォーラムという勉強会を開催しました。第1 回目 (1 月) には黄斑部疾患、第2 回目(7 月) には糖尿病網膜症をテーマにとりあげました。これは有意義な生涯教育の場になりつつあると実感しております。第3 回目は視神経乳頭の循環をテーマにして来年l 月に開催の予定です。さらに、関西眼疾患研究会を発足させ、国内講師や外人講師による臨床に関する講演会を水曜日の夕方に月1 回程度府立医大会議室で行いました。いろいろな分野のエキスパートの話を参考にして、各自の医療レベルをより高度なものに引き上げようということが狙いでした。明交会図書室の整備も行いました。

 大学の診療におけるスローガンとしては、「充実した臨床と上手な病診連携」を掲げ、患者さんにもご紹介くださった先生方にも満足していただけるような診療を心掛けるべく教室員一同で頑張ってきました。質の高い、常に世界トップレベルの診療を行うためには、技量はもちろんのことですが、知識と情報も最先端にある必要があります。このため、ARVO (Association for Research in Vision andOphthalmology) とAAO (American Academy ofOphthalmology)という眼科領域における二大国際学会のAnnual Meeting に多くの教室員が出席、発表いたしました。私の個人的な考え方かも知れませんが、自分の慣れ親しんだ環境とは異なった環境に触れると短期間に非常にいろいろなものを吸収することが出来るようです。その際たるものは海外発表や留学であり、これを薦めてまいりました。若い医師の関連病院ローテーションも同様です。こちらも関連病院の先生方のご協力で、きわめて円滑に行えるようになってまいりました。明交会の諸先生方の温かいご支援を持ちまして、活気のある教室運営が、また同窓会運営が出来つつあると予感しております。「楽しくかつ誇りを持てる教室」になるよう引き続きご指導ご鞭撻を賜われば幸いです。(明交第31 号より)

1992平成4年

教授就任のご挨拶

 この度縁あって、4 月l日付けで由緒ある眼科学教室の10代目教授に就任いたしました。私は昭和49 年に大阪大学医学部を卒業、大学病院の研修医、住友病院の医員として眼科臨床に研鑽しました。その後、ハーバード大学の眼科研究員として3 年間留学し、角膜上皮・結膜上皮の分化、血管新生および角膜潰癒発生のメカニズムなどの研究に従事しました。帰国後は大阪大学の助手、大阪労災病院の眼科部長などを経て、再び大阪大学に復帰し、研究・診療・教育に携わってきました。このように、私の今までは、大学勤務、病院勤務、留学などと勤務先が約3 年毎に変わるという少し落ち着かないものでありました。このような経歴の中で、常に研究対象としてきたものは難治性角膜疾患の治療法の開発であり、世界で考えても最先端の治療が行なえるよう努力してきました。アイバンクの整備と角膜移植関係の充実にも努力してきました。

 教室運営に関する抱負ですが、先ず第一に、教室員が興味を持って仕事を行い、自分の能力を最大限に発揮できるような環境を整備していきたく考えています。このため、基礎および臨床教室との交流はもちろんのこと、積極的に国内・国外研修を薦め、世界的にトップレベルの研究内容と診療が提供できるような教室づくりに邁進したく考えています。以上のような理想とバックグラウンドを持つ若輩医師ですが、京都府立医科大学眼科学教室の発展に全力投球するつもりです。何卒よろしくご指導とご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。(明交第30 号より)